依上保をめぐる戦乱の縮図

大子城

だいごじょう Daigo-Jo

別名:

茨城県久慈郡大子町大子

城の種別

山城

築城時期

永享元(1429)年

築城者

芳賀重高

主要城主

芳賀氏、岩城氏、佐竹氏

遺構

曲輪、土塁、堀切

主郭とU曲輪の間の堀切<<2005年02月11日>>

歴史

 

永享元(1429)年、白川結城氏配下の芳賀河内守重高が築城したという。その後岩城氏によって攻め滅ぼされ約40年間支配した。その後永正七(1510)年頃、佐竹義舜によって接収され一時野内氏が在城したが、間もなく廃城となった。

大子城というのは大子町の中心街を見下ろす山の上に築かれた小さな山城ですが、このお城や附近の鏡城などは、「依上保」と呼ばれたこの地方の複雑な歴史の縮図のようなお城です。

八溝の山塊の中の温泉町、茨城県久慈郡大子町周辺の地は「依上保」と呼ばれ、古代においては奥羽白川郡に、中世には高野郡に属していました。この地が「常陸」の一部となったのは天正十八(1590)年以後、佐竹義宣が豊臣秀吉によってその所領を安堵されてからのことで、それまでは奥州に属する地であったのです。世が世なら、「福島県大子町」になっていた可能性も決して無くはありません。この大子の地は八溝山を最高峰に、周囲はみな深い山々に囲まれた盆地となっており、その中を久慈川が貫流しています。こうした土地というのは得てして強大な権力が生まれにくく、周辺諸国の介入を招きやすいものですが、この依上保も例外ではありませんでした。

南北朝の頃には、依上保は後醍醐天皇により「結城惣領家」と認められた、白河結城氏の所領となります。それまでは北条得宗領であったようです。室町期には佐竹氏の庶流である山入氏とその庶流の依上氏が進出します。しかし山入氏が「上杉禅秀の乱」に加担したことで足利持氏に所領を没収され、依上氏もまた滅ぼされ、ふたたび白川結城氏の所領となります。その後、佐竹義舜が岩城氏の支援を以って山入氏義を滅ぼしたことにより、佐竹氏は所伝の「奥七郡」の支配を回復、続けて依上保にも侵攻し、これまた岩城氏の支援で白川氏の勢力を駆逐、依上保をも手中に収めます。佐竹義舜による依上保の領有はその後も揺らぐことが無く、佐竹氏はここを足場に奥州南郷や那須、宇都宮方面などの多方面へ進出します。依上保の兵力もその都度、主力の一翼として活躍しています。

この大子城は白河結城氏が依上保の支配拠点として、家臣の芳賀河内守に築かせたものですが、永正年間ごろに岩城・佐竹連合軍の攻撃により落城、そのまま廃城となったといいます。事実上、この大子城の落城によって依上保の支配権が確立するのですが、依上保には支配の中心となるような拠点的城郭がなく、大子城の廃城はやや腑に落ちないところがあります。

大子城平面図(左)、鳥瞰図(右)

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そういったわけで、「ここがもしや佐竹氏の依上保における中核城郭なのでは」という期待のもと、「常総戦隊ヤブレンジャー」が大子城を襲撃しました。といっても比高差200m近い山城であるにもかかわらず満足な道らしい道はなく、評定を重ねた結果、東麓から直登することに。麓附近は伐採されているのでヤブが少なく楽そうに見えましたが、とにかく急斜面な上に足元が悪く、さらにヤブが無いのはいいんだが、おかげでつかまる所が無いという過酷な条件下での直登。これはさすがにコタエました。下山時に分かったのは南側に重機によって切り拓かれた道があるにはあるのですが、こちらもかなり急斜面かつ荒れた道なので、登るのは相当しんどいでしょう。とにかく直登の末に尾根筋に辿り着いたときにはホッとしました。

で、遺構なのですが、大きな曲輪が二つ並び、その間を比較的大きな堀切が断ち切っています。また周囲には腰曲輪、帯曲輪などを配置していますが、いかんせん城域は狭い上に支尾根の分断も完全ではなく、拠点的城郭どころか、少数の人数の逃げ込み城というのが関の山、という程度のお城でした。廃城が永正年間ということですが、現在の遺構を見る限り、妥当な線であるといえます。少なくとも佐竹氏による積極的な改修は無かったと断言しても良いでしょう。しかし、その気になればかなりの堅城を築ける地形だし、戦略的立地の面でも非常に優れた山城だと思うのですが、このお城がとっとと廃城になってしまったのは不思議でなりません。

「行きたい」という物好きな人がどれくらいいるかわかりませんが、結構キツイ山だし一人では行かないことをオススメするだけです。

[2006.11.12]

「道の駅だいご」から久慈川対岸の山が大子城。しかしこの角度では城域は手前の山の陰に隠れています。この正面を直登しましたが、コレは失敗だったかも。 「常陸大子」駅そばの押川にかかる橋から見る大子城。少し奥まった山頂に位置します。
直登を開始したヤブレンジャー部隊。ヤブが無いのはいいんだが、掴まる場所が無いところを直登するのは実にアブナイ。この後暫く危険すぎて写真が撮れなかった・・・。 やっと足場の良いところに出て後ろを振り返れば、久慈川と押川の合流点、大子町の中心部あたりが良く見えます。
山の上からは月居城の威容がよく見えます。おそらく狼煙などで連絡を取り合っていたのではないでしょうか。 暫く尾根を進むと、T曲輪先端の鋭い切岸が見えてきます。いよいよ城域です。
山の上の曲輪は意外なほど削平状態もよく、広さもあります。T曲輪は北東端が一段高くなっています。 T曲輪西側の土塁?塚?
おお、これぞ最大の見所である堀切1。といってもこれ一つしかないのですが、T曲輪側で8mほどあり、鋭さもあってなかなか良い。 T曲輪の西側に位置するU曲輪。主要な曲輪はTとUの二つです。
U曲輪周囲の切岸。周囲の切岸もなかなか鋭く、小なりといえどもなかなか堅固です。 主要な2つの曲輪の周囲には小さな腰曲輪、帯曲輪が沢山あります。しかし西側の尾根続きは掘り切られておらず、段郭主体の防御といえます。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「日立南太田」IC車60分。

JR水郡線「常陸大子」駅より徒歩30分で登り口

周辺地情報

少々きつい山ですが月居城が近隣の代表的な山城。国道118号沿いには池田古館、その背後の山上に鏡城などがあります。

関連サイト

 

 
参考文献

「常陸太田市史」

「大子町史」

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

参考サイト

余湖くんのホームページ 

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