大子城というのは大子町の中心街を見下ろす山の上に築かれた小さな山城ですが、このお城や附近の鏡城などは、「依上保」と呼ばれたこの地方の複雑な歴史の縮図のようなお城です。
八溝の山塊の中の温泉町、茨城県久慈郡大子町周辺の地は「依上保」と呼ばれ、古代においては奥羽白川郡に、中世には高野郡に属していました。この地が「常陸」の一部となったのは天正十八(1590)年以後、佐竹義宣が豊臣秀吉によってその所領を安堵されてからのことで、それまでは奥州に属する地であったのです。世が世なら、「福島県大子町」になっていた可能性も決して無くはありません。この大子の地は八溝山を最高峰に、周囲はみな深い山々に囲まれた盆地となっており、その中を久慈川が貫流しています。こうした土地というのは得てして強大な権力が生まれにくく、周辺諸国の介入を招きやすいものですが、この依上保も例外ではありませんでした。
南北朝の頃には、依上保は後醍醐天皇により「結城惣領家」と認められた、白河結城氏の所領となります。それまでは北条得宗領であったようです。室町期には佐竹氏の庶流である山入氏とその庶流の依上氏が進出します。しかし山入氏が「上杉禅秀の乱」に加担したことで足利持氏に所領を没収され、依上氏もまた滅ぼされ、ふたたび白川結城氏の所領となります。その後、佐竹義舜が岩城氏の支援を以って山入氏義を滅ぼしたことにより、佐竹氏は所伝の「奥七郡」の支配を回復、続けて依上保にも侵攻し、これまた岩城氏の支援で白川氏の勢力を駆逐、依上保をも手中に収めます。佐竹義舜による依上保の領有はその後も揺らぐことが無く、佐竹氏はここを足場に奥州南郷や那須、宇都宮方面などの多方面へ進出します。依上保の兵力もその都度、主力の一翼として活躍しています。
この大子城は白河結城氏が依上保の支配拠点として、家臣の芳賀河内守に築かせたものですが、永正年間ごろに岩城・佐竹連合軍の攻撃により落城、そのまま廃城となったといいます。事実上、この大子城の落城によって依上保の支配権が確立するのですが、依上保には支配の中心となるような拠点的城郭がなく、大子城の廃城はやや腑に落ちないところがあります。
|
|
大子城平面図(左)、鳥瞰図(右)
クリックすると拡大します |
そういったわけで、「ここがもしや佐竹氏の依上保における中核城郭なのでは」という期待のもと、「常総戦隊ヤブレンジャー」が大子城を襲撃しました。といっても比高差200m近い山城であるにもかかわらず満足な道らしい道はなく、評定を重ねた結果、東麓から直登することに。麓附近は伐採されているのでヤブが少なく楽そうに見えましたが、とにかく急斜面な上に足元が悪く、さらにヤブが無いのはいいんだが、おかげでつかまる所が無いという過酷な条件下での直登。これはさすがにコタエました。下山時に分かったのは南側に重機によって切り拓かれた道があるにはあるのですが、こちらもかなり急斜面かつ荒れた道なので、登るのは相当しんどいでしょう。とにかく直登の末に尾根筋に辿り着いたときにはホッとしました。
で、遺構なのですが、大きな曲輪が二つ並び、その間を比較的大きな堀切が断ち切っています。また周囲には腰曲輪、帯曲輪などを配置していますが、いかんせん城域は狭い上に支尾根の分断も完全ではなく、拠点的城郭どころか、少数の人数の逃げ込み城というのが関の山、という程度のお城でした。廃城が永正年間ということですが、現在の遺構を見る限り、妥当な線であるといえます。少なくとも佐竹氏による積極的な改修は無かったと断言しても良いでしょう。しかし、その気になればかなりの堅城を築ける地形だし、戦略的立地の面でも非常に優れた山城だと思うのですが、このお城がとっとと廃城になってしまったのは不思議でなりません。
「行きたい」という物好きな人がどれくらいいるかわかりませんが、結構キツイ山だし一人では行かないことをオススメするだけです。
[2006.11.12]
|