関宿を追い詰める「昔之仕寄場」

山王山砦

さんのうやまとりで Sannouyama-Toride

別名:

茨城県猿島郡五霞町山王山

(東昌寺)

城の種別

平城

築城時期

永禄十一(1568)年ごろ

築城者

北条氏照

主要城主

北条氏照

遺構

土塁、空堀(水堀?)

東昌寺山門脇の堀<<2003年08月02日>>

歴史

永禄十一(1568)年、武蔵滝山城主・北条氏照が野田氏の下総栗橋城を接収、ここを拠点に山王山砦、不動山砦などを築いて関宿城を包囲、攻撃した(第二次関宿合戦)。しかし、武田信玄による駿河侵攻とそれに伴う甲相駿三国同盟の破棄、翌年の相越和睦により攻撃は中止された。永禄十二(1569)年五月七日、北条氏照の柿崎和泉守景家宛の書状で、山王山砦の破却と「山王山人衆」を引き退かせることを了承したと報じ、翌閏五月七日には破却が行われた旨を上杉謙信に書き送っている。

天正二(1574)年に勃発した「第三次関宿合戦」では、簗田持助の書状に「今度之籠城ニ於山王山北廻輪種々走廻候・・・」とあり、また天正五(1577)年閏七月一日付けの北条氏朱印状に「舟橋、山王山南之構之小ほり半分ツゝ、両宿より可致之候・・・」とあり、山王山砦がその後再興されたことを伺わせる。

なお、正保元(1644)年に江戸幕府が諸藩に命じて提出させた『正保城絵図』の「下総国世喜宿城絵図」には、「昔之仕寄場」として描かれている。

関宿城から現江戸川(旧逆川・太日川)の分流点を挟んだ北西側対岸に、山王の集落があります。ここには簗田持助が父・満助の菩提を弔うために建立した東昌寺がありますが、ここには実は城郭遺構と思しきものがあります。ここは、「第二次関宿合戦」において、北条氏照が対の城として取り立てた山王山の砦と見られています。

近世初頭に徳川幕府の命によって描かれた「正保城絵図」の「世喜宿城」の図にも、北西の方角に逆川(現江戸川本流)を挟んでふたつの曲輪が描かれており、「昔之仕寄場」、つまり攻撃のための陣城として描かれています。もともと関宿城の外郭として簗田氏によって築かれたという説もあり、中世関宿城の位置すらはっきりとは分からないこともあって詳細は謎のままですが、この山王山の砦には北条氏照配下の「山王山人衆」が配置され、永禄十二(1569)年当時は関宿城は追い詰められて落城寸前の状態にあったようです。この関宿城の危機を救ったのは、甲相駿三国同盟の破綻と相越和睦という対外情勢の劇的変化によるもので、北条氏康と上杉謙信の和睦の条件にはこの関宿城をめぐる条項も含まれていたと見え、北条氏照は上杉謙信配下の柿崎和泉守景家に、山王山曲輪の破却に同意する旨を報じ、その一ヵ月後には越後府中に破却の完了を報ずる書状をしたためています。

とにもかくにも危難を救われた関宿城ですが、簗田晴助・持助父子は北条の血を引く足利義氏を公方に奉じて北条・上杉連合に従うことを快しとせず、第三の選択肢として簗田氏の血を引く足利藤政(藤氏は既に死去)を擁立し甲斐の武田信玄との同盟に踏み切ります。しかし相越和睦の破綻と甲相同盟の復活で簗田氏は孤立してしまい、結局は天正二(1574)年、「第三次関宿合戦」の敗北により関宿城を明渡すこととなり、古河公方筆頭重臣としての簗田氏の歴史はひとまず終焉を迎えてしまいます。この「第三次」においても、いったん破却された山王山砦が復興されて、北条軍の陣城として、その後も関宿城の一部として使われたようです。

この東昌寺の山門附近には、土塁と思われる遺構、堀と思われる遺構などがあり、お寺の本堂の裏手にも堀痕らしき地形が認められます。しかし、一般的な縄張の常識に反して、土塁の内側に堀があるなど、多少ヘンに思わないでもありません。あるいは北条得意の「比高二重土塁」だったものが、内側の土塁が湮滅した結果、と見ることも出来るかもしれません。山王の集落は明らかに周囲よりも高台にあり、当時周囲にあったという山王沼や利根川(渡良瀬川)水系、常陸川水系の湿地に浮かぶ水の砦であったことは想像に難くありません。なお、現在の東昌寺は寛文六(1666)年にこの地に移転してきたものであるそうです。

利根川に面した山王集落の遠景。集落全体がかつての自然堤防上にあるのでしょう、周囲の低地(山王沼などがあった)からは2-3mほどの高さがあります。 簗田持助が「御家之鏡」と謳われた父・満助のために建立した東昌寺の山門。現在の山門は元禄二(1689)年、関宿城主牧野備後守成貞室の寄進によるものだそうです。
右上の写真の山門手前にも写っていますが、山門の正面付近には土塁とみられる遺構らしきものがあります。 山門向かって左手にある堀と土塁、明らかに城郭遺構と見えますが、堀と土塁の位置関係が普通と逆です。堀は空堀だったのか、水堀だったのかはよくわかりません。
東昌寺本堂の裏手にも、土塁や堀らしき地形がありますが、こちらも一般的な配置とは逆です。 文明八(1476)年、簗田河内守持助の銘のある梵鐘。簗田氏と下河辺荘周辺の支配を物語る上でも貴重な文化財といえるでしょう。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「久喜」IC車20分。

東武伊勢崎線「幸手」駅徒歩60分。

周辺地情報

関係の深い関宿城栗橋城など。

関連サイト

関宿合戦」の頁もご覧下さい。

 
参考文献 「関宿城と戦国簗田氏」(千葉県立関宿城博物館)、「中世関宿城の構造とその機能」(新井浩文/千葉県立関宿城博物館 『研究報告 第二号』平成10年3月に所収)

参考サイト

常陸国の城と歴史余湖くんのホームページ房総の城郭

 

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