関宿城から現江戸川(旧逆川・太日川)の分流点を挟んだ北西側対岸に、山王の集落があります。ここには簗田持助が父・満助の菩提を弔うために建立した東昌寺がありますが、ここには実は城郭遺構と思しきものがあります。ここは、「第二次関宿合戦」において、北条氏照が対の城として取り立てた山王山の砦と見られています。
近世初頭に徳川幕府の命によって描かれた「正保城絵図」の「世喜宿城」の図にも、北西の方角に逆川(現江戸川本流)を挟んでふたつの曲輪が描かれており、「昔之仕寄場」、つまり攻撃のための陣城として描かれています。もともと関宿城の外郭として簗田氏によって築かれたという説もあり、中世関宿城の位置すらはっきりとは分からないこともあって詳細は謎のままですが、この山王山の砦には北条氏照配下の「山王山人衆」が配置され、永禄十二(1569)年当時は関宿城は追い詰められて落城寸前の状態にあったようです。この関宿城の危機を救ったのは、甲相駿三国同盟の破綻と相越和睦という対外情勢の劇的変化によるもので、北条氏康と上杉謙信の和睦の条件にはこの関宿城をめぐる条項も含まれていたと見え、北条氏照は上杉謙信配下の柿崎和泉守景家に、山王山曲輪の破却に同意する旨を報じ、その一ヵ月後には越後府中に破却の完了を報ずる書状をしたためています。
とにもかくにも危難を救われた関宿城ですが、簗田晴助・持助父子は北条の血を引く足利義氏を公方に奉じて北条・上杉連合に従うことを快しとせず、第三の選択肢として簗田氏の血を引く足利藤政(藤氏は既に死去)を擁立し甲斐の武田信玄との同盟に踏み切ります。しかし相越和睦の破綻と甲相同盟の復活で簗田氏は孤立してしまい、結局は天正二(1574)年、「第三次関宿合戦」の敗北により関宿城を明渡すこととなり、古河公方筆頭重臣としての簗田氏の歴史はひとまず終焉を迎えてしまいます。この「第三次」においても、いったん破却された山王山砦が復興されて、北条軍の陣城として、その後も関宿城の一部として使われたようです。
この東昌寺の山門附近には、土塁と思われる遺構、堀と思われる遺構などがあり、お寺の本堂の裏手にも堀痕らしき地形が認められます。しかし、一般的な縄張の常識に反して、土塁の内側に堀があるなど、多少ヘンに思わないでもありません。あるいは北条得意の「比高二重土塁」だったものが、内側の土塁が湮滅した結果、と見ることも出来るかもしれません。山王の集落は明らかに周囲よりも高台にあり、当時周囲にあったという山王沼や利根川(渡良瀬川)水系、常陸川水系の湿地に浮かぶ水の砦であったことは想像に難くありません。なお、現在の東昌寺は寛文六(1666)年にこの地に移転してきたものであるそうです。