「歴史」でも触れたように、万木城で夷隅地方に勢威を振るった土岐氏にとって、万木城の最大の防衛拠点であるだけでなく、万木城築城までの本拠地とも目されている場所です。
現在は椎木堰・中原堰と呼ばれるふたつの灌漑用貯水池ですが、もともと低湿地帯であり、この二つの湖沼はそれぞれ「鶴ヶ城」「亀ヶ城」と、城の名前で呼ばれていました。この「鶴亀」二つの城は実質的には同一の城で、ふたつの湖沼に挟まれた島状の丘陵上全体に展開していました。この丘陵は周囲とはそれなりに比高差があり、周囲が沼沢地である上に谷津と支峰が非常に複雑に入り組んでいて、防衛にはなかなか適した地形です。
鶴ヶ城へはふたつの堰の中間地点の南端、ほとんどの地図にも載っていないような細い道(途中で藪化して消えて無くなっている)からアプローチします。道の周囲は昼なお薄暗い山林になっていて、なかなか不気味です。この細道はところどころで分岐し、薄暗い脇道を入っていくと曲輪跡が畑になっていたりします。麓から大した距離ではない割には、まるで深い山中に迷い込んだような、心細くなる道です。特にこの日は霧雨が降る天候だったので、薄暗さが余計に不気味に感じられました。結構驚いたのが薄暗い山林が多少開けた平場のところどころにポツンと民家が建っていること。失礼ながら決して便利な場所ではないだけに、この城にゆかりのある方の子孫の方々かな?などと思いました。
城域はとても広く、いくつかの曲輪群に分けられているようでした。全体に明瞭な以降には乏しく、前述の細い道や畑、民家付近以外は深い藪(クモの巣がスゴすぎ!)になっていて、もし遺構があったとしても確認は難しいでしょう。多少は堀や虎口の名残と思われるものもありますが、万木城の築城様式と現地を歩いた印象から考えて、土塁や堀よりも腰曲輪主体の防備であったと思われます。なによりもこの沼沢地と複雑な地形が最大の防御の要になっていたため、大きな防御施設はなかったのでしょう。
堰の周囲もほとんどが山林や藪になっているため、全体的にあまり行きやすい場所ではなく、見学に適しているともいえませんが、中原堰の南西端に中原堰改修の記念碑があり、そこから湖沼に浮かぶような姿の鶴ヶ城をみることができます。