万木を守った鶴と亀

鶴ヶ城

つるがじょう Tsuruga-Jo

別名:亀ヶ城

千葉県夷隅郡岬町中原

(中原堰・椎木堰付近)

城の種別

平山城

築城時期

天正二(1574)年?

築城者

万木土岐氏

主要城主

土岐氏(?)、鶴見氏、佐々木氏

遺構

曲輪、堀の一部、土塁の一部

中原堰から見る鶴ヶ城<<2002年09月15日>>

歴史

天正二(1574)年に万木城の土岐為頼がもともとこの地にあった機岳山海雄寺を万木城下に移し、その跡に鶴ヶ城亀ヶ城を築いたと言われるが、それより以前に万木城を築くまでの土岐氏の本城であった可能性もある。戦国後期には万木五支城のひとつとして、北方の一宮城に対する境目の城として機能し、鶴見弾正忠が置かれた。

天正十七(1589)年、豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻める姿勢を鮮明にすると、万木城にも北条氏政・氏直父子から土岐頼春宛に陣触れが届き、300騎を小田原城に送った。これを見計らって、庁南城の武田豊信(信栄)が突如、手薄になった万木城を急襲した。武田豊信は鶴ヶ城亀ヶ城の後詰を警戒し、家臣の石黒隼人助に騎馬50、弓70、徒歩100名を与えて鶴ヶ城を警戒させ、同様に鶴見甲斐守にも兵を与えて亀ヶ城鶴ヶ城と実際には同一)の佐々木駿河守を警戒させた。万木城の頼春は巨岩・巨木を投げ落とし、鉄砲をつるべ撃ちに応戦、そのうちに支城の矢獄城等の援兵が寄せ手の背後を襲い、潰走する庁南勢に退路の伏兵が待ち伏せし猛射撃を加え、家臣の多賀六郎左衛門をはじめ93の首級を挙げ快勝した。

天正十八(1590)年の小田原の役で、本多忠勝らの来襲に戦わずに降伏開城した。なお、現在の椎木堰は鶴ヶ城、中原堰は亀ヶ城とも呼ばれている。ふたつの名を持つ城は地を接した同一丘陵上にあり、事実上ひとつの城である。

「歴史」でも触れたように、万木城で夷隅地方に勢威を振るった土岐氏にとって、万木城の最大の防衛拠点であるだけでなく、万木城築城までの本拠地とも目されている場所です。

現在は椎木堰・中原堰と呼ばれるふたつの灌漑用貯水池ですが、もともと低湿地帯であり、この二つの湖沼はそれぞれ「鶴ヶ城」「亀ヶ城」と、城の名前で呼ばれていました。この「鶴亀」二つの城は実質的には同一の城で、ふたつの湖沼に挟まれた島状の丘陵上全体に展開していました。この丘陵は周囲とはそれなりに比高差があり、周囲が沼沢地である上に谷津と支峰が非常に複雑に入り組んでいて、防衛にはなかなか適した地形です。

鶴ヶ城へはふたつの堰の中間地点の南端、ほとんどの地図にも載っていないような細い道(途中で藪化して消えて無くなっている)からアプローチします。道の周囲は昼なお薄暗い山林になっていて、なかなか不気味です。この細道はところどころで分岐し、薄暗い脇道を入っていくと曲輪跡が畑になっていたりします。麓から大した距離ではない割には、まるで深い山中に迷い込んだような、心細くなる道です。特にこの日は霧雨が降る天候だったので、薄暗さが余計に不気味に感じられました。結構驚いたのが薄暗い山林が多少開けた平場のところどころにポツンと民家が建っていること。失礼ながら決して便利な場所ではないだけに、この城にゆかりのある方の子孫の方々かな?などと思いました。

城域はとても広く、いくつかの曲輪群に分けられているようでした。全体に明瞭な以降には乏しく、前述の細い道や畑、民家付近以外は深い藪(クモの巣がスゴすぎ!)になっていて、もし遺構があったとしても確認は難しいでしょう。多少は堀や虎口の名残と思われるものもありますが、万木城の築城様式と現地を歩いた印象から考えて、土塁や堀よりも腰曲輪主体の防備であったと思われます。なによりもこの沼沢地と複雑な地形が最大の防御の要になっていたため、大きな防御施設はなかったのでしょう。

堰の周囲もほとんどが山林や藪になっているため、全体的にあまり行きやすい場所ではなく、見学に適しているともいえませんが、中原堰の南西端に中原堰改修の記念碑があり、そこから湖沼に浮かぶような姿の鶴ヶ城をみることができます。

中原堰に浮かぶ半島状の台地が詰の城。この詰城を中心とした部分が「亀ヶ城」にあたります。 こちらは西の椎木堰から見る「鶴ヶ城」の主郭部。島状の台地の中心、最高点付近に当たります。
心細い道を進んで、脇道に逸れると意外に広い畑地が。台地東南端に突き出た半島の上です。ここは兵員を駐留させる外郭に当たる部分のようです。 細い屈曲した道の先、東に突き出た半島の上が詰城だったらしい。一軒の民家があります。この台地の上に行く道は見当たりませんでした。
主要部である「殿屋敷」地区。数件の民家があります。この写真の両側が堀で、奥にわずかに土塁があります。「図説房総の城郭」ではここを「馬出し」としています。 その「殿屋敷」手前、南側の堀。自然地形が複雑なため、本当に堀であるかどうかは自信はありませんが。。。

殿屋敷地区をさらに北に向かうと道は藪になります。道の西側斜面に獣道を発見し、降りてみると虎口らしい場所、堀と土橋らしき地形がありました。しかし、まだ日中なのに夜のように真っ暗です。

西南端、椎木堰に突き出した見晴らしの良い半島状台地から椎木堰を見る。結構な比高差があるのがわかりますね。ここにも数件の民家があります。

人気の少ない場所であるだけに、民家の犬に吼えられたり防犯装置が仕掛けられていたり、なんとなく見学に気が引ける感じでした。もっと気軽に見学できるような場所だったら良かったんですが。。。

 

 

交通アクセス

千葉東金道路「東金」ICから車30分。

JR外房線「太東」駅より徒歩30分。

周辺地情報

同じく万木支城の矢嶽城が岬町内にありますが、整備はされていないので見学できる状態かどうかは不明。とりあえず万木城をおすすめしておきます。

関連サイト

 

 
参考文献 「房総の古城址めぐり(上)」(府馬清/有峰書店新社)、「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会)、「大多喜城とその周辺」(千葉県立総南博物館)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

参考サイト

余湖くんのホームページ

 

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