幻の巨大山城

観音寺

かんのんじじょう Kannonji-Jo

別名:佐々木城

 

滋賀県蒲生郡安土町石寺

城の種別

山城

築城時期

建武二(1335)年

築城者

佐々木氏頼

主要城主

佐々木(六角)氏

遺構

曲輪、石垣、虎口、井戸、水路 他

本丸石垣<<2001年11月25日>>

歴史

築城時期は定かではないが、南北朝時代の建武二(1335)年に佐々木氏頼が北畠顕家の軍を迎え撃つために整備したと「太平記」にあることから、この時期に原型となる砦が築かれていたと考えられる。観音寺城は近江源氏の嫡流である佐々木(六角)氏の居城として室町期に徐々に拡張され、六角氏は南近江の守護職を任じられた。応仁元(1467)年からの応仁の乱では山名宗全率いる西軍に属し、同族で北近江を支配する京極氏と対立、数度に渡り観音寺城に籠城した。長享元(1487)年、六角高頼は山門や幕府御料地を侵略、第九代将軍となった足利義尚の親征を受けるが、高頼は一時的に観音寺城を脱出し、甲賀衆の力を借りて襲撃・奪還する奇策を用いた。延徳三(1491)年には第十代将軍義稙により再び親征を受けるがこの際も同じ手口で城を奪還した。

高頼の子・定頼の時代には第十二代将軍足利義晴、第十三代将軍足利義輝を城下に迎えて庇護し、天文十五(1546)年には義輝の烏帽子親になり管領代に任じられている。また大永三(1523)年には文献上はじめて「城割り」が行われ、支城網が整理された。また義賢は城下町の石寺に楽市楽座の令を布く等、進歩的な行政を行った。一方、江北の京極氏の家督争いに乗じて台頭した浅井亮政を討つ為に大永五(1525)年、浅井氏本拠の小谷城下に侵攻、天文元(1532)年、一旦は京極高清の仲裁により和睦したが、高頼の子・六角義賢は浅井亮政の子、久政を天文二十二(1553)年、地頭山合戦で破り降伏させ、久政の嫡男・新九郎を義賢の一字書き出しを与え賢政と名乗らせ、六角氏の家臣・平井加賀守定武の娘を娶らせるなど、事実上浅井氏を服属させた。しかし永禄二(1559)年、賢政は六角氏に叛旗を掲げ、平井定武の娘を離縁し、重臣の支持を得て父・久政を隠居させ、長政と名乗った。長政は永禄三(1560)年、観音寺城の北8kmの野良田に出陣、浅井軍一万一千と六角氏二万五千が激突、浅井氏は奇襲により勝利を収め、浅井氏は以降江北地帯を支配した(野良田合戦)。

義賢は永禄二(1559)年に隠居し入道承禎と号したが、子の義弼(義治)は重臣の後藤但馬守賢豊父子を暗殺したため家臣団が屋敷に火を放って在地に引き上げ、あるいは浅井氏に寝返るなど分裂、力を弱めた。そのため、十三代将軍の義輝が永禄八(1565)年に松永久秀らに暗殺された後、弟の覚慶(のちの義輝)が六角氏を頼って観音寺城下に逃れてきた際も協力できず、覚慶らは若狭武田氏、越前朝倉氏を頼り、後に尾張・美濃を手中に入れた織田信長を頼ることになった。六角承禎・義弼父子は永禄十(1567)年、分国法である「六角氏式目」を定め家臣団統率に努めたが、永禄十一(1568)年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛軍を発した際にこれに帰属せず、信長と対立、九月十二日に支城の箕作城が陥落し和田山城も開城、これを見た六角父子は観音寺城を逃れ、信長は観音寺城を無血占領した。以降、廃城になり、一部の石材・木材は尾根続きの目加田山(安土山)に移され安土城の資材となったといわれるが、安土築城後も存続されていたとの見方もある。

いや、でかいのなんの、今回予定していた見学時間じゃ、ほんの一部しか見られません。そもそもこの繖(きぬがさ)山っていうのが、麓から見ても思わず「エッ!?」と思うほどでかい山で、観音寺城はこの山全域が城砦だったことを考えれば、主な遺構を見るだけでも半日やそこらはかかってしまいます。とりあえず今回は、観音正寺付近から本丸までの、ごく一部分の見学。と言っても、これだけでも並みの城ひとつ分くらいは優にありますけど。本丸や淡路丸には、崩れかけた石垣が散在していて、何とも言えない古城の風格というか、主を失ってしまった「幻の城」の妖気のようなものが漂っています。

六角(佐々木)氏は宇多源氏嫡流の名門で、同族には湖北の京極氏、湖西の朽木氏などがいましたが、とくに京極氏とは近江の支配権をめぐって何度も干戈を交えています。定頼の頃は足利将軍家の「後ろ楯」として十三代将軍義輝の烏帽子親にもなり、管領代として幕府を支えていましたが、京極氏にとって替わって湖北を制圧した浅井氏との争い、とどめは六角義弼による重臣・後藤氏の誅殺事件(観音寺騒動)によって徐々に勢力を弱めていきます。信長が足利義昭を奉じて上洛の途についたときに、信長は六角義賢(入道承禎)にも協力を求めます。このとき既に、信長は「尾張の成り上がり者」ではなく、義昭という「飛び道具」を擁して天下獲りレースの先頭を走っていましたが、それでも六角氏の名門意識が、信長に与することを潔しとしなかったのでしょう。抵抗の姿勢を示し、観音寺城と支城である箕作城、和田山城などを固めますが、時の勢いに乗った織田軍によって鎧袖一触に蹴散らされ、驚いた六角父子は闘わずして観音寺城を放棄します。信長が近江を制圧し、事実上の天下人となって畿内に号令した後も、六角氏はゲリラ活動で織田軍を攪乱しますが、結局六角氏は再び観音寺城に還ることはできませんでした。南條範夫の「幻の観音寺城」は、「観音寺騒動」を題材に、六角氏の衰退を描いた異色の作品ですが、ここでは六角氏の姿は最低下劣な一族として描かれています。あくまで「小説」の世界なので、史実とはまるで違うと思います。やや読後感に難がある小説ですが、ちょっと変わったものを読んでみたい方は手にとってみると良いでしょう。

ところで、六角氏が信長に追い散らされた後、観音寺城はほんとに廃城になったのでしょうか?安土城築城にあたり、多くの石材、建材が流用されたことは事実のようですが、この繖山に比べたら安土の山なんて単なる小山、しかも峰続きときたら、安土城の「詰の城」として、整備したとは言わないまでも、完全破却ではなく一定の役割と機能を温存していた、と考える方が自然ではないでしょうか?そもそも、敵(安土築城時点での最大の敵は本願寺勢力及び越後上杉勢か)に繖山を獲られたら、安土城なんか風前の灯火だもの。そういうわけで、安土城の詰め城として、また琵琶湖南岸に続く街道確保の支城郡の一つとして、存続されていた、と考えています。

安土城と尾根続きにある繖(きぬがさ)山の威容。日本最大級の山城であるとともに、由緒ある寺院、観音正寺の建立された信仰の山でもあります。 本来なら桑実寺か日吉神社からの参道を登るのが王道なのですが、時間節約のため有料道路で観音正寺付近まで登る。参道を歩き始めてすぐ目に付く重臣の目加田氏の屋敷跡。
参道にひっそりと建つ「伝淡路丸跡」の案内標識に沿って参道を外れると、石垣を伴なう曲輪に出ます。布施氏の屋敷、淡路丸らしいです。石垣と井戸が残ります。 淡路丸の石垣は高くはありませんが非常に味があります。誰もいない曲輪で崩れかけた石垣を眺める。これおもしろからずや・・・。
淡路丸には二ヶ所の虎口があり、参道沿いの虎口はほぼ崩壊していましたが、北側の虎口はしっかり残っています。虎口周囲の石垣の状態も良好。 参道を観音正寺に向かうと、大きな石垣虎口が見えてきます。権現見附です。この近くに大見附と呼ばれる場所もあるはずですが、場所が分かりませんでした。
聖徳太子が開基といわれる古刹・観音正寺。残念なことに平成五(1993)年に本堂が焼失してしまったとのこと。ここから本丸へは山道を5分ほどです。 観音正寺の下、後藤屋敷との間の石垣(一部復原)。後藤氏は、観音寺騒動で六角義弼に誅殺された後藤但馬守父子。結果的にこの騒動が名門・六角氏の衰退に繋がりました。
本丸大井戸へ向かう虎口の石垣。高さは3mほどもあり、排水用の水路なども見られます。 紅葉の美しい本丸。井戸跡もありました。
石牢のような本丸の「太夫井戸」といわれる大井戸。 本丸の周囲には、半分崩れかけた石垣が至るところに見られ、一種独特な雰囲気を醸し出しています。
本丸周囲の土居の上に積まれた武者走り状の石垣。このあたりは近代鉄砲戦による攻防に備えたものかも知れません。 本丸周囲にも重臣屋敷や虎口、石垣があちこちにあります。写真は薬師口見附付近の石垣。
今から思えば、なんとか時間の工夫をして、桑実寺からのコースを歩くべきでした。とにかく、一時間や二時間で歩ききれる広さではなく、僕がここにいたわずか一時間あまりの間にも、至るところに崩れかけ、苔生した石垣や、屋敷跡と思われる削平地などが無数といっていいほど点在しているのが見られました。聞けば主な屋敷跡だけでも100、小規模な帯曲輪などを含めると1000にも及ぶ曲輪があるのだとか。これは気合いを入れて出直さないと。

 

交通アクセス

JR安土駅より徒歩、レンタサイクル。

周辺地情報

観音寺城だけでもおそらく丸一日必要でしょうが、近隣ではまずは安土城。山麓の「信長の館」も見逃せません。とりあえず安土駅の前で案内図を手に入れることをオススメします。あとは箕作城、和田山城などの支城をはじめ、信長の京への街道を警護した琵琶湖南岸の大小数々の城郭があります。

関連サイト

 

 
参考文献 別冊歴史読本「戦国古城」 新人物往来社、元亀信長戦記 学研「戦国群像シリーズ」 風雲信長記 学研「戦国群像シリーズ」、安土町観光協会パンフレット
参考サイト  

 

埋もれた古城 表紙 上へ