いや、でかいのなんの、今回予定していた見学時間じゃ、ほんの一部しか見られません。そもそもこの繖(きぬがさ)山っていうのが、麓から見ても思わず「エッ!?」と思うほどでかい山で、観音寺城はこの山全域が城砦だったことを考えれば、主な遺構を見るだけでも半日やそこらはかかってしまいます。とりあえず今回は、観音正寺付近から本丸までの、ごく一部分の見学。と言っても、これだけでも並みの城ひとつ分くらいは優にありますけど。本丸や淡路丸には、崩れかけた石垣が散在していて、何とも言えない古城の風格というか、主を失ってしまった「幻の城」の妖気のようなものが漂っています。
六角(佐々木)氏は宇多源氏嫡流の名門で、同族には湖北の京極氏、湖西の朽木氏などがいましたが、とくに京極氏とは近江の支配権をめぐって何度も干戈を交えています。定頼の頃は足利将軍家の「後ろ楯」として十三代将軍義輝の烏帽子親にもなり、管領代として幕府を支えていましたが、京極氏にとって替わって湖北を制圧した浅井氏との争い、とどめは六角義弼による重臣・後藤氏の誅殺事件(観音寺騒動)によって徐々に勢力を弱めていきます。信長が足利義昭を奉じて上洛の途についたときに、信長は六角義賢(入道承禎)にも協力を求めます。このとき既に、信長は「尾張の成り上がり者」ではなく、義昭という「飛び道具」を擁して天下獲りレースの先頭を走っていましたが、それでも六角氏の名門意識が、信長に与することを潔しとしなかったのでしょう。抵抗の姿勢を示し、観音寺城と支城である箕作城、和田山城などを固めますが、時の勢いに乗った織田軍によって鎧袖一触に蹴散らされ、驚いた六角父子は闘わずして観音寺城を放棄します。信長が近江を制圧し、事実上の天下人となって畿内に号令した後も、六角氏はゲリラ活動で織田軍を攪乱しますが、結局六角氏は再び観音寺城に還ることはできませんでした。南條範夫の「幻の観音寺城」は、「観音寺騒動」を題材に、六角氏の衰退を描いた異色の作品ですが、ここでは六角氏の姿は最低下劣な一族として描かれています。あくまで「小説」の世界なので、史実とはまるで違うと思います。やや読後感に難がある小説ですが、ちょっと変わったものを読んでみたい方は手にとってみると良いでしょう。
ところで、六角氏が信長に追い散らされた後、観音寺城はほんとに廃城になったのでしょうか?安土城築城にあたり、多くの石材、建材が流用されたことは事実のようですが、この繖山に比べたら安土の山なんて単なる小山、しかも峰続きときたら、安土城の「詰の城」として、整備したとは言わないまでも、完全破却ではなく一定の役割と機能を温存していた、と考える方が自然ではないでしょうか?そもそも、敵(安土築城時点での最大の敵は本願寺勢力及び越後上杉勢か)に繖山を獲られたら、安土城なんか風前の灯火だもの。そういうわけで、安土城の詰め城として、また琵琶湖南岸に続く街道確保の支城郡の一つとして、存続されていた、と考えています。