安土城めぐり

宣教師ルイス・フロイスが

そして同時代の誰もが目を見張った荘厳にして華麗な城郭、安土城。

しかしそれは、信長の野望の最終章を待たずして姿を消した。

今、我々はそこに残る壮大な石垣から、信長の夢の跡を

推し量るしかない。

安土城。

戦国時代を愛し、研究する者であれば、

必ず一度は訪れてみなければならない場所。

安土の駅前では、信長公がお出迎え。城跡を汚したりすると、信長公に斬られますよ!安土城、観音寺城見学には、駅前の観光案内所で各種資料をもらってから行くといいでしょう。 安土山遠望。かつては琵琶湖に突き出した半島で、写真右には観音寺城の建つ繖山の巨大な姿が聳えています。
威風堂々たる大手道。180mにも及ぶ直線の道は、従来の中世城郭の概念を完全に打ち破った斬新なものでした。 大手道の石材として転用された石仏。神も仏も恐れぬ信長らしい姿です。
大手道に向かって左の入り口を占める「伝・羽柴秀吉邸」。この立地からも、信長の秀吉に対する絶大なる信頼が伺えます。 伝羽柴邸の礎石建物跡。織田軍団の押しも押されぬ花形武将として、豪華な邸宅を構えていました。
秀吉邸の向かいは「伝・前田利家邸」。こちらも信長からの絶大な信頼が伺えます。この一段上は「伝・徳川家康邸」。家康は家臣じゃなくて同盟者なのに、属将なみの扱いですね。 こちらは祐筆として活躍した重臣。武井夕庵邸跡。池跡が残ります。
大手道最高部は織田信忠邸跡。信忠は将来を嘱望されながらも本能寺の変で父と運命を供にしました。 信長お気に入りの小姓・森蘭丸邸。蘭丸も本能寺で最後まで戦って死んでゆきました。
蘭丸邸のとなりは織田(津田)信澄邸。信澄は信長に誅殺された弟・信行の子で、丹羽長秀、織田信孝らと四国渡海の準備中に変に遭い、丹羽長秀らに嫌疑をかけられ謀殺されました。 織田信雄の廟所。変の後、安土城に火をかけて炎上させたのは信雄だと言われています。宣教師・ルイスフロイスはその理由を「信雄が普通より馬鹿だったから」としています。

城内主要部への虎口にあたる黒金門跡。重厚な石垣が信長の権威をいやが上にも示しています。
二ノ丸の石垣。 二ノ丸付近の「蛇石」と伝承される石。しかし、蛇石は数万人もの人夫が担ぎ上げた石。こんな小さな石じゃないと思うのですが。。。
信長の本廟が祀られている二ノ丸跡。 秀吉建立と言われる織田信長の本廟。
本丸への虎口にあたる見附門跡。 見附門付近の苔生した本丸石垣。
本丸の礎石建物跡。本丸には、京都御所の清涼殿を模した御殿が建てられ、信長が天皇の行幸を計画していたことが分かりました。 地下一階、地上六階の荘厳な天主が聳えていた天主台への入り口。
天主台の礎石群。地下から七階、高さ45m、東西南北すべて非対称で、各階ごとに違う色で塗り分けられていたと言う想像を絶する意匠の天主が聳えていました。信長の野望を形にしたこの壮大な天主も、本能寺の変と供に炎に包まれ、永遠に姿を消してしまいました。今ここに残るのは、信長が見た天下布武の夢の跡か・・・。

總見寺跡から西ノ湖を望む。この日はガスっていて眺望が悪かったのが残念。 安土城築城と同時に建立された總見寺跡。總見寺は安土城廃城後も残っていましたが、幕末に火災で焼失しました。
こちらは創建当時の三重の塔。總見寺の祀り神は信長自身でした。 こちらも創建当時の山門。安土城築城当時の姿を今に伝える貴重な遺構です。
外堀跡。 安土駅前の「安土町城郭資料館」に展示されている天主模型。当時の常識を打ち破る吹き抜け構造がわかりますね。

安土城下の「文芸の郷(信長の館)」に復原された天主5・6階部。度肝を抜く絢爛さ。 五階八角の間。金箔押しの壁と障壁画、朱漆塗りの床と柱。信長のセンスが常人離れしていることがよ〜くわかります。こんな部屋、住みたいですか?

六階部。これは道教や儒教の理念を具現化してるんだとか。凡人の僕には理解を超えます・・・。 この「信長の館」、紙人形なども展示されていてなかなか楽しい。この写真は斎藤道三との会見に向かう「大うつけ」信長の姿。
なかなか紹介しきれないほど見所の多い安土城。お隣の観音寺城とあわせて、まる一日くらいかけて見てみたいところです。「信長の館」は写真にもある紙人形、天主5・6階部分の復原など、見所が多いのでぜひ立ち寄ってください。しかし、復原された天主を見るにつけ、信長の斬新というか、悪趣味スレスレの感性に驚いてしまいます。やはり天才の天才たる所以、というとこでしょうか?凡人の僕には理解を超えます。

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