荘厳なる中世荘園「奥山荘」の城館群

奥山荘城館遺跡

おくやまのしょうじょうかんいせき

OkuyamanoShou Joukan Iseki

別名:

新潟県北蒲原郡中条町本郷町 他

(地図は江上館周辺)

城の種別

中世武士居館 他

築城時期

鎌倉時代〜戦国時代 

築城者

城氏、中条氏およびその庶流各氏 

主要城主

城氏、中条氏およびその庶流各氏 

遺構

江上館:復元土塁、復元水堀、復元虎口、模擬木戸

古館:土塁、堀跡

ほか多数

復原された江上館南門と堀<<2002年05月04日>>

歴史

桓武平氏の一族、城氏が平安末期に奥山荘周辺を支配した。

建仁元(1201)年、城資盛は平氏復興のため鳥坂城で挙兵、幕府は佐々木盛綱を越後御家人の総大将として追討軍を派遣、城氏は事実上滅亡した。その後幕府は木曽義仲追討の恩賞として、三浦和田氏の和田義茂に奥山荘地頭職を与えた。三浦和田氏は土着して中条氏を名乗り、黒川氏、関沢氏、築地氏、金山氏など多くの庶流を生み出した。とくに中条氏と黒川氏は波月条や金山郷などの周辺の所領をめぐり度々紛争を起こした。江上館は越後三浦和田氏の宗家・中条氏の15世紀の居館と見られている。戦国期の後半は中条氏は庶流の羽黒氏の居館を接収し、鳥坂城南麓にも居館を構え、居館と要害を一体化した根古屋式城郭とした。その頃には江上館は使われなくなっていたと思われる。慶長三(1598)年の上杉景勝の会津移封により、中条氏もこの地を離れ、奥山荘における三浦和田氏の支配は終わった。

江上館はニュータウン建設中の本郷町の一角にあり、遺構なんか残ってるの?という不安をヨソに、「奥山荘歴史の広場」として整備され、中世荘園とその城館遺構を体験見学できる、素晴らしい公園と資料館に生まれ変わりました。土塁や堀、掘建建物の柱穴などが復原され、模擬門も建てられています。ちょっと綺麗過ぎるかな?そんな中、北側にひっそりと立つ稲荷神社のまわりには、わずかですが現存の土塁が見られます。土塁は方形の武士居館の体をなしていますが、外枡形の虎口や馬出し、食い違いなどを備え、ある程度時代の緊張の高まりに応じて防備を固めていったらしいことがわかります。また堀も空堀ではなく、周囲の低湿な地勢を利用した水堀や泥田堀だったようです。ここ江上館の周囲は現在は住宅地や水田ですが、かつては胎内川の氾濫原に位置した湿地帯で、その湿地に守られた館だったのでしょう。ここは15世紀初頭の中条氏居館跡といわれています。この中条氏の要害が白鳥要害(鳥坂城)です。のちに中条氏は鳥坂城直下の羽黒氏の居館を自らの本拠とし、さらに「東館」と呼ばれる館城を構えます。

江上館鳥瞰図

※クリックすると拡大します

隣接する「奥山荘歴史館」では、発掘時の貴重な出土品等が展示されています。とくに当時の権威の象徴であった宝物「青白磁梅瓶」などは完全な姿で発掘されていて、非常に貴重です。しかも、こういった資料館にありがちな、甲冑から着物、刀剣まで、時代性やテーマの一貫性を無視して何でもかんでも並べる資料館と違い、あくまでも「奥山荘」とその城館遺跡からの発掘物主体の展示で、派手さはないものの一貫したポリシーを感じられて非常に好感が持てます。僕が注目したのは木橋の橋脚基部。15世紀の居館跡で一部とはいえ建物構造物が発見されるのは貴重ではないでしょうか。この歴史公園はやや整備されすぎ、の感はありますが、「奥山荘」という中世の大荘園を「研究家以外の一般人や小学生でも」易しく理解できる入門としてオススメの場所であります。「歴史」というものをカビの生えた骨董品のように捉えるのではなく、地域性を前面に押し出して「楽しみ」と「興味」を与える、そんな「生きた生涯教育」「意味のある地域教育」の姿を見たような気がします。ニュータウン建設で申し訳程度に「発掘報告書」だけ出してぶち壊されても不思議じゃないこのご時世に、これを整備した中条町と中条町教育委員会に心から敬意を表したいと思います。この江上館のすぐ南側の「坊城遺跡」では、平成八(1996)年から十一年(1999)年にかけての発掘調査で平安末期から十三世紀にかけての大型の建物痕、陶磁器、漆器などが大量に出土したとのことで、この「坊城遺跡」が城氏の時代からの奥山荘の政所であったことがほぼ判明したとのことであります。こちらはほとんどが宅地化される予定とのことですが、中世荘園の政治・経済の中枢という、貴重な遺跡だけに、なんとか一部だけでも残して欲しいものです。

古館は十二天集落のはずれにある寺院の土地になっていて、見事な土塁と堀跡が残ります。いわゆる変形方形館の一種ですが、土塁には折も見られます。このあたりはかつての胎内川旧河道にも近く、低湿地帯であったと考えられ、堀も空堀ではなく泥田堀だったでしょう。堀の北東の一角は今でも湿地であり、アイガモ農法による農地になっています。鎌倉時代に三浦一族の者が居住したといわれ、当時の過去帳には「堀近江守一万石の館なり」と記されているそうです。いずれにしても中条氏を惣領家とする三浦和田一族の居館のひとつであったでしょう。ここは黒川氏発祥の地だという説もあるそうですが定かではないです。

金山城館遺跡群は、鎌倉期の古城から戦国末期の高度な遺構までが点在している貴重な遺跡です。おおまかに言って、古い要害と言われる「願文山城」、戦国期の要害として取り立てられた「高館」、その高館に付随する「館ノ内」、城砦というよりも番城的な砦である「カタツムリ山城」などの城館群からなり、それぞれの遺構は規模こそ小さいものの、実に良好に残っています。いわゆる「大名」クラスではない、中小土豪の居館跡として貴重です。

築地氏館は中条町築地集落、総持寺近辺の現在は宅地や農地になってしまった超低地にあります。ここは海にも近く、実際に砂丘の上に館があったと見られます。東側には塩津潟が広がっていたでしょう。中世の新潟平野は阿賀野川・信濃川を中心とした河川の運ぶ土砂による造陸運動が進んでいた時期でもあり、その造陸運動で今に見る長大な砂丘が発達していったようです。その結果、砂丘に遮られて行き場を失った河川は広大な潟や湖沼などの湿地を作り出しました。この築地氏館も今の目で見ると「なぜこんな場所に?」と思うような場所ですが、上記のような当時の地勢も考慮に入れると、要害性や水陸両方の交通を取り締まる位置にあったであろうことが想像できます。遺構の残存状況は悪く、史跡指定もとくに受けていないようです。ほとんど唯一の明瞭な遺構は、民家の先に稲荷社が祀られた土塁の残欠がある程度ですが、注意してみると周囲の湿地(蓮田)や微低地となっている畑に堀の痕跡が伺え、総持寺境内にも土塁が見られます。おそらく単郭方形の居館から、平城とまではいわないにしても多郭雑形居館への進化があったものでしょう。築地氏は一族が相争うことの多かった中条氏の庶流の中でも比較的中条氏をよく助けていたようで、重い位置にあったようです。

倉田城は中条町関沢集落付近、標高60mほどの小丘陵にあります。城主は不明ですが、おそらくこの地を相続した中条氏庶流の関沢氏あたりとの関連があるものと思われます。関沢氏は黒川城主の黒川氏と同時期に分立した、中条氏庶流の中でも比較的古い家系ですが、中条氏と黒川氏の間に挟まれて振るわず、あまり表舞台に出ることはなかったようです。倉田城には堀切や腰曲輪があるといわれ、以前に一度探査したのですが、丘陵は完全に藪化していて歩くのも困難なほどで、明瞭な遺構は発見できませんでした。この東側の背後には櫛形山脈が控え、城氏時代のものと言われる山城や南北朝期以降の城館が多数確認されています。

この他、黒川城鳥坂城などの多数の城館群をはじめ、石塔、墳墓などの遺跡群が広範囲に残っています。順次ご紹介していきたいと思います。

[2004.07.10]

「奥山荘歴史の広場」入り口の案内板。江上館や近隣の城館遺跡の解説があります。全体にちょっと整備されすぎかな?という感はありますが、こういったことに興味を持ち始めたばかりの人にとっては格好の入門になるでしょう。

堀を挟んで、復原された江上館南門と虎口を見る。門は本来矢倉を伴なっていますが、二階部分は未復原です。ここまでやったらぜひ復原して欲しいです。ここの虎口は外枡形になっていて、単なる方形館から進化した、戦国期の居館の様相を見せています。

江上館の土塁上から内部。いくつかの掘立建物風な建築物が建てられ、また建物柱穴跡や井戸跡、石敷きなどが要領よく復原されています。

屋敷内部の堀割跡。外堀の水を引き込んで、屋敷内部を水路が通っていたとか。

翳し(かざし)を伴なう北門と虎口。この翳しにより屋敷内部を外側から見えなくしていました。この辺りの堀や土塁、虎口の形は見応えがあります。

北門虎口と北郭。北郭は実質的に馬出しになっていて、単純な方形館から進化した「平城」への移行形態が見えてきます。通路は二重の堀と三重の土塁により直進できない構造になっています。

江上館の主郭と北曲輪の間の堀。写真右手の土塁から横矢がかかるようになっています。 よく見ると周囲の畑なんかも堀の痕跡を残していますね。

土塁は殆どが改修復原されていますが、北側の一角、鷲麻神社付近は当時のまま。遠くに見えるのは有事の要害であった鳥坂城(白鳥要害)

奥山荘歴史館。小さな資料館ですが、初心者にもとっつきやすい展示で好感がもてます。2002年5月6日に正式オープン。僕が見学した日はプレオープンイベント(無料見学会)でした。入館料は100円だそうです。

当時の権威の象徴と言われた宝物・青白磁梅瓶。鮮やかな色彩、完全な状態で発掘された非常に貴重な発掘成果物。中条藤資が撫でまわしていたかも知れない(?)

堀に架かっていた木橋の基部です。橋脚の柱穴や礎石を検出、というのはよくあることですが、こういうものが発掘されるのはあまり他では見たことがありません。

奥山荘を語る上でよく登場する「波月条近傍絵図」。絵図の由来は不明ですが、「太伊乃川(胎内川)」の氾濫により、中条氏と黒川氏の間で領土の境界線紛争が発生した際の裁判資料らしいです。波月条(現・中条町並槻)は現在は胎内川南岸ですが、この絵図では北岸になっており、胎内川が氾濫し河道が変化するたびにこういった争いが起きていたのでしょう。

「古舘」は変形方形居館。胎内川旧河道の低湿地に浮かぶ微高地で、土塁と堀跡が残ります。堀は泥田堀だったようです。木々の間に見える赤い屋根が常光寺。正面が大手だったようです。

方形の土塁に囲まれた常光寺境内。集落の道路に面した北側に中条町の建てた碑があります。この碑の場所は虎口ではなく、後世の改変であるようです。

周囲の堀は水堀、泥田堀だったようです。写真左奥の青いネットは湿地を利用したアイガモ農法の農地になっていました。 古舘の土塁。高さは3mほどあり、内部には武者走り状の段が見られます。隅には迎撃用の矢射ち場があります。
築地集落の東端に近い場所にある築地氏館。正面のやや高い木の立つ場所付近が中心です。湿地に面した砂丘上に築かれた居館でした。 宅地と農地の間にひっそりと、わずかに残る土塁。稲荷社が祀られています。全体に築地氏館の残存状況は芳しくありません。
集落東端の堀跡と見られる湿地。この付近の農地にも若干の堀の痕跡が見られます。 築地集落の総持寺は結構大きなお寺で、由緒もあるのでしょう。ここにも土塁がありました。築地氏時代のものであるかどうかは不明ですが、館が進化する過程でこの総持寺付近も取り立てられていた可能性は十分にあると考えられます。
関沢集落の裏手の標高60mほどの小丘陵が倉田城。周囲は土取りなどで荒らされていますが、丘陵本体は無事です。堀切などがあるらしいですが藪化していて発見できませんでした。 関沢集落にある鎌倉〜南北朝期と推定される板碑群。例によって風格がありすぎて何が書いてあるかは全くわかりませんでした。

 

交通アクセス

JR羽越線「中条」駅より徒歩20分

周辺地情報

一応中条にもビジネスホテルはありますが、せっかくだから観光地気分で黒川村でご宿泊を。

中条町内であれば鳥坂城。南ならば金山城館遺跡。北に行くなら平林城村上城。物好きな人はぜひ黒川城も見ていってやってください。

関連サイト

中条町

奥山荘の頁を作りました。こちらもご覧下さい。

 
参考文献

「黒川村誌」

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「奥山荘の歴史と江上館」(中条町教育委員会)

「ふるさと散策」(中条町教育委員会)

「中条町の文化財」(中条町教育委員会)

現地解説板、奥山荘歴史館配布資料、中条町教育委員会提供資料

参考サイト  

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