<<安曇・筑摩電撃侵攻戦:初日>>

2005.09.17(土) 晴れ時々曇り

秋の初めの三連休、夏の間に鈍った身体を甦らせるべく、信州へ出撃。今回のターゲットは大町・南安曇・東筑摩などの仁科氏、小笠原氏関連の城館で、ちょうど林城を追われてからの小笠原長時の流浪と抗戦の足跡を辿るようなルートである。どちらかというと遺構の面白さよりもむしろ話のネタ探しの旅のような感じである。
三日間で山城8、平城4、おまけの砦1。山城はほとんどが比高200mオーバー、かつ満足なルートが無いものが多く、難行苦行の連続となった。それにしても、クマのエサにならないでほんとに良かった。。。。以下長野県。
見学先 岩原城堀金氏館小岩嶽城西山城天正寺仁科氏館、森城、館之内仁科氏館
メンバー 単独
前夜 例によって前日の夜出発、意外に早く梓川SAに到着してネゴヤ号で一泊。そろそろ夜も涼しくなってきて、車中で寝るには丁度いい時期である。
さて、なかなか行く機会の無かった安曇野に念願かなってやっと進出。今回は山城がメインなので、クマベル、ホイッスル、鉈など、完全武装での出撃となった。出てくるなよ〜。この日は堀金村から、北アルプスの東側山麓沿いに大町まで北上することにした。秋とはいえまだ日中の気温は高く、アルプスの山々が綺麗に望めないのは残念ではある。
9/17(土)08:30 ■岩原城(長野県南安曇郡堀金村→安曇野市へ改称)
GWにオカ殿、五郎殿と平瀬城に行ったときに、対岸はるか先に見えるこの山が気になっていた。とりあえず近くまで行ってはみたが、登山口がなかなかわからず、しかたなく堀金霊園の先の大同寺古薬師堂跡から直登アプローチした。しかし山麓付近のヤブと倒木には閉口。スズメバチも飛んでいるではないか。。。山腹に取り付くとヤブはそれほどでもなく、急峻な山をしばらく登って尾根筋の道に出ると・・・なんと、地元のおばあちゃんとバッタリでくわした。こういう山で人に会うのは相当珍しい。聞けばおばあちゃん、76歳だというが、元気に直登してキノコ採りをやっているのだそうだ。このおばあちゃんに元気を貰って尾根筋を進むと・・・今度は御歳80は下らないであろうおじいちゃんが!いや、じーちゃんばーちゃんが元気なのはいいことである。お気をつけて!

ダイナミックな山城を堪能できる。登るのはしんどいが、素晴らしいお城である。

で、こちらは尾根筋をどんどん登ると、小規模な削平地や堀切が見えてきた。そしてそそり立つ大堀切を強引に越え、最後の急斜面を登って主郭へ。主郭には腐りかけた岩原城跡の標柱が立っていた。ここからさらに搦手の尾根筋を見ると、高さ15mほどはあろうかという大堀切に感動。ここは三重堀になっている。さらに奥まで進んで見ると、かなり先にまで遺構がある。さらに尾根続きの高山にも「さるが古城」なる地名があり、何らかの城郭遺構があるのかもしれない(行ってません)。それにしても岩原城、いいお城である。気に入った!

11:00

 

 

堀金氏館(長野県南安曇郡堀金村→安曇野市へ改称)
岩原城主でもあった堀金氏の居館が残っているというので行って見る。個人宅になっているが、道路に面した土塁上に「堀金氏居館跡」の標柱が建つ。このお宅にお願いして、玄関前の堀痕なども見せてもらう。土塁の内側に堀があるというのはどうなんだろう、外側にもう一本堀があったんだろうか・・・?
個人宅なので見学の際は一声かけましょう!

12:00

 

 

小岩嶽城(長野県南安曇郡穂高町→安曇野市へ改称)
武田信玄の安曇野制圧戦でも最大級の激戦地。「討取頚五百余、足弱取事数ヲ不知候」とはあまりにも痛ましい。

山麓の居館部は公園や神社になっており、模擬門や模擬櫓が建っているが、神社になっている主郭以外は申し訳ないが公園とは名ばかりで一面のヤブである。今回の目的はこの裏山の詰城の攻略。絡手筋とされる南東の尾根に取り付くと、道があった。しかし、ここらへんの山はきのこ山であるらしく、随所に立入禁止の看板やロープがあり、所々有刺鉄線まである。きつい直登の尾根で、両側を有刺鉄線に挟まれて登るのは実にアブナイ。と、突如イヌに吠えかけられた。なぜこんな高い山にイヌが!?と思ったら、地権者らしき人とバッタリ。ちょっと不審がられたが、城山を見にきたことを告げると、行き方を教えてくれた。40分ほどかかってやっと主郭にたどり着いたが、ここには標柱もなにもなく、通路の両側に有刺鉄線が張られていて、正直ちょっと幻滅であった。遺構面でもあまり大したものは無く、少なくとも詰城はよほど物好きでもない限り、用事の無い場所だと思った。館の方は数段の広い削平面があり、一部に堀や土塁も残る。おそらく戦国期には詰城よりも、この居館部「館城」が重視されていたのだろう。できればヤブはなんとかして!遺構の面白さはともかく、佐久の志賀城と並ぶ、武田氏の苛烈な信州制圧戦を辿る上では訪れる価値のある場所である。

おいおい、城址公園とは名ばかりのヤブだぞ・・・。 山頂も苦労して登頂する割には寂しい限りである。
14:00

 

■西山城(長野県北安曇郡松川村・大町市)
地理的な関係で次はここになったが、正直山城3城目はかなりきつい。しかもこのお城、やたらと尾根筋が長いのだ。このお城の特徴は東の城と西の城で別城一郭構造というか、二つの異なるコンセプトの山城が組み合わさって出来ているところである。道が遊歩道になっていて歩きやすいのが助かる。思ったより遺構も鋭さがあって、なかなかいい山城である。ここでも一人のオジサンに会った。なんでも、主郭の神社の社殿を修理しにきているのだという。資材を運ぶのがしんどい、と漏らしていた。なぜ社殿が壊れたかというと、クマに襲われたんだという。社殿の中にあったハチの巣を狙って、クマが木の上からダイブして、屋根を壊してしまったんだそうだ。その話も面白いが、なにより「やっぱ、いるのね・・・」と警戒感を強くせざるを得なかった。オジサン、クマさんに遭わない様に気をつけてくだされ!

クマのダイブで破壊された神社の屋根。単独で修理に挑むオジサン、気をつけてくだされ。
15:30 ■天正寺仁科氏館(長野県大町市)
もう今日は山城はオシマイ、ということで、平地の館へ。安曇の大名族、仁科氏の本拠である。仁科氏は、世が世なら信濃一国の守護になっていてもおかしくなかったと思うし、小笠原守護体制下でも一目置かれる存在だった。ソレガシはこの大名族にして、いかにも中世的な同族血縁集団的な仁科氏が結構好きなのである。仁科氏の正統は仁科盛政の代に武田氏によって滅ぼされてしまった。その名跡を嗣いだのが信玄の五男、晴清で、彼は仁科五郎盛信を名乗った。そう、あの高遠城で壮絶な戦死をする人物だ。
仁科氏の歴史をわずかに語り繋ぐ堀跡。ずっと残って欲しい遺構である。

仁科盛信はいわば占領者でありながらも、領内の統治や民政にも力を入れて、領民や旧仁科氏家臣団からも慕われたという。

遺構そのものは方形の主郭の一部の土塁、堀が残る程度だが、あの仁科氏の本拠と思うと実に感慨深い。残ったわずかな遺構を大事にしてほしい。

16:00

■森城(大町市)
その仁科氏の「詰城」というのがここである。詰城といっても山城ではなく、木崎湖に突き出た低い台地を城郭化したものだ。主郭は仁科神社になっていて、だいぶ改変されているようだが、それでも土塁ははっきりしている。北側にやや低い平場があり、降りてみると湖水を引き込んだ水堀や泥田堀の痕跡なども割とはっきり残っていた。しかし、いかんせん観光地としての開発が進んでおり、全体像がいまひとつ見えにくい。みんな木崎湖の自然を楽しみにくるのだから、お城の方も自然のまま(?)に残してほしかった・・・。なにより、観光地化している場所でヤブコギするのは気が引けるので、ざざっと見て撤収。

木崎湖に突き出た低い半島状台地が城跡。周囲はリゾート地帯である。
17:20 ■館之内仁科氏館(大町市)
仁科氏の最も初期の居館というが、段丘地形が残るのみで遺構はなし。公民館の前に標柱だけが立っている。それでもまあ仁科氏ゆかりの地という意味では来た意味もあったかな・・・。ほんとはこの裏手の山、南城・北城にも行きたかったんだがさすがに時間が無いので、これは次回のお楽しみに取っておこう。それにしても初日はほぼスケジュールどおり回れて満足。
18:30 松本市内の安宿に逗留。この日の最大の戦果はやはり岩原城かな。オーソドックスながら、久々にいい山城を見せてもらった。山の中で会ったおばあちゃん(山麓で再び出逢った)の人懐っこさも印象的である。ただ、地形が険阻な上、道が分かりにくいことや山麓附近がキノコ山になっているので、行く際にはルート選びを慎重にしたいところである。

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