高天神城めぐり
「高天神を制するものは遠江を制す」と言われた重要拠点。
それゆえ、徳川と武田は果てしなくその帰属をめぐって
凄惨な死闘を繰り広げた。
あまりにも多くの血を吸い取った大地。
その地からは、大地を揺るがす鬨の声や
弾ける鉄砲の轟音、喚声をあげて斬りあう兵どもの断末魔の叫び、
それらが今にも聞こえてきそうだ。
天正九年三月二十二日、高天神、再落城。城兵700名、討死。
大手口。屈曲した坂入虎口です。山県昌景や内藤昌豊、本多忠勝など、そうそうたる面々が攻撃に当たっています。 | 大手門を登ると着到櫓跡。ここも屈曲のある急坂です。どんな櫓が建っていたのでしょうか?このあたりから道は三ノ丸方面と本丸帯曲輪方面に分岐します。 |
東峰と西峰を繋ぐ鞍部にあたる井戸曲輪。水の手を徳川軍に奪われた武田軍が掘ったと言う大きな井戸があります。 | 井戸曲輪の上が西の丸(丹波曲輪)。高天神社が祀ってあります。この西の丸周辺が弱点だったようで、二度の落城はこの西の丸から寄せ手に奪われています。 |
西の丸がある「西峰」は切割(堀切)や空堀などの戦国期らしい遺構が多く見られます。あまり整備されていないのが難点ですが・・・。 |
馬場跡からは、南アルプスなども見えるらしいです。この日は猛暑に空気も霞んで、見晴らしは今ひとつでした。 |
馬場からの景色。はるか先に海が見える、はずなのですが、前述のとおりガスっていたため見えず。 | 馬場の先にある、唯一の尾根続きの険路「犬戻り猿戻り」。いわゆる抜け道です。天正九年の落城では、武田の軍監・横田甚五郎尹松がこの険路から夜間脱出し甲府に帰りついたため、「甚五郎抜け道」とも言われます。 |
西の丸北方の、武田氏拡張部分にあたる堂の尾曲輪。曲輪上には土塁があり、周囲を横堀と堀切に囲まれた、最も技巧的な部分です。 | 堂の尾曲輪下の空堀。はっきりとは分かりませんでしたが、堀内障壁を伴う障子堀だったらしいです。このあたりは唯一傾斜が緩やかなので、斜面を守るために手の込んだ普請を行っているのでしょう。 |
堂の尾曲輪付近の堀切。堀切もこの西峰に集中しています。 | おなじく堂の尾の堀切。東峰にはこのような構造はなく、あくまで腰曲輪主体の守りなのに対し、西峰はこのように堀や土塁等を多用しています。 |
徳川の将であった丸尾・本間兄弟の墓。二ノ丸の守将であったが、穴山信君配下の兵に狙撃されました。 | 三ノ丸。小笠原長左衛門が守ったことから、長左衛門平とも言われます。搦手〜本丸を守る重要な曲輪ですが、木に覆われていて何も見えません。 |
三ノ丸の片隅に残る土塁。下は急斜面なので土塁は要らないような気がしますが、この下に武者走りが走ってているので、その関係で存在するのでしょう。 | 二ノ丸と隣接する袖曲輪はすっかり山林化しています。 |
井戸曲輪から東峰の本丸へと向かう重要な場所に位置する的場曲輪。 | 的場曲輪の先の帯曲輪に石牢があります。天正二年の落城時に、武田に降伏しなかった大河内源三郎正局(まさもと)が七年にも渡って幽閉された牢です。しかし、ここに七年とは・・・絶句。 |
一応城内で一番広い本丸曲輪。「千畳」と言われていますが、とてもそんなに広くはないです。 | 本丸の一角に建つ「元天神社址」。西の丸に天神社を移すまで、ここに本堂があったのでしょうか。 |
御前曲輪。なにやら観光地によくある「顔だけ武者」「顔だけお姫様」がありますが、あんまりこういうのはこの城には似つかわしいとは思えません。 | 御前曲輪からの景色。たしかに遠江を見下ろす要衝です。御前曲輪と本丸曲輪は実質的にはひとつの曲輪でしょう。 |
搦手の石段。かなり急ですが距離は短いので、見学は搦手から登るといいでしょう。周囲が崖に近い地形なので、その分大規模な堀や土塁などの遺構は全体に少ないようです。 | 搦手脇にある三日月池。染み出た地下水を貯めて、少しでも水の手にしようとしたもの。しかし、この水量じゃ城を支えるのはとてもとても。。。 |
整備された、搦手門跡の広々した遊歩道。岡部真幸他城兵900名は、この搦手付近で演じられる幸若に涙を流し、翌朝に玉砕して果てました。 | 最後の城将、岡部真幸の墓(右)。左は。。。。うっ、忘れてしまった! |
行ったのがだいぶ前だったので結構忘れてます(笑)。もっと早くアップするべきでしたね。反省。もう一回行ってじっくり見たい場所ですね(今度は夏以外で)。周辺の「六砦」と言われた家康の付け城なども、興味があります。「暗殺の城」もう一回読んで、出直すとするか! |