高見城のある四津山は周囲の丘陵の中でもひときわ高く目立っており、国道254号線や関越自動車道からもよく見えます。いかにもお城を作りたくなるこの山、案の定、お城なのです。
お城そのものの歴史は上記のとおり、あまり詳しいことは分かっていませんが、この比企丘陵を南北に貫く鎌倉街道を意識したものでしょう。基本的には武蔵・上野の守護でもあった関東管領・山内上杉氏の属城であったと思われます。
この関東管領殿、本来であれば公方を補佐し関東に静謐をもたらすべき役割でありながら、足利持氏−山内上杉憲実の時代から公方家とも仲が悪く、上杉憲忠などは足利成氏の派遣した討手に討ち取られてしまうありさま。やがて顕定の代に至っても、家宰職をめぐって上野守護代の長尾家から長尾景春のような叛乱者が出てきたりで、静謐どころか戦乱をもたらす張本人にさえなっていました。この長尾景春の乱や古河公方との長きに渡る戦乱で頭角を顕したのが扇谷上杉家の家宰、ご存知太田道灌でしたが、道灌の名声高まるに連れ、顕定はこれを警戒、とうとう扇谷上杉定正をそそのかして道灌を誅殺させてしまいます(伝上杉氏館の頁参照)。しかしこれによって両上杉は歯止めを失い、とうとう同族相争う「長享の大乱」へと突入します。緒戦は相模実蒔原の合戦、次いで武蔵菅谷原合戦、そしてこの高見城附近での高見原合戦へと繋がります。このときには山内上杉氏は実家の越後上杉氏の援軍も得て、とりあえず勝利を収めています。二度目の決戦は延徳三(1491)年、このときはあの北条早雲が扇谷上杉氏の援軍として加わっています。しかし、定正は陣中で急没。一説に、渡河の際に落馬してそれが致命傷になった云々。結局、この上杉氏の同族対決は永正二(1505)年に扇谷上杉朝良が河越城で実質降伏する形で幕を閉じるのですが、その間に力をつけたのが北条早雲や長尾為景ら、生粋の戦国大名でした。やがて扇谷上杉氏は有名な「河越夜戦」で滅亡、山内上杉氏も平井城を棄てて越後に逃亡、長尾景虎に名跡を譲って事実上消滅していきます。高見城はその世代交代を、高い山の上から見ていたのでしょう。
高見城のある山は「四津山神社」が建っていて、山全体がよく整備されています。参道のだらだら坂と階段を10分ほども歩くと、主郭の神社周辺にたどり着きます。決して大きなお城ではないのですが、遺構の保存状態はよく、きちんと下草刈りもされているので快適に見学できます。縄張りもとくに変わっているわけではないのですが、端正な近世城郭をも思わせるもので、なかなか楽しめます。詳細は下記をどうぞ。
【高見城の考察】2004.1.25
高見城鳥瞰図
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高見城は、四津山神社が鎮座する独立丘の山頂(標高204m、城下集落より比高110m)に主に四つの曲輪を直線的に配した山城である。主郭にあたる曲輪Tは 30×50mほどの広さがあり、北側の縁部には虎口と土塁がよく残っている。ここ以外には土塁は見られないが、もともとなかったのか崩れた(崩した)のかは不明である。しかし、崩したようにも見えないので、もともと虎口附近にしか築かれなかったのかもしれない。ちなみに現在四津山神社の参道となっている階段経由の経路「男坂」は当時は存在していなかっただろう。
曲輪Uは曲輪Tの尾根が大きく北に向きを変える位置にある。10m四方ほどのほぼ方形の曲輪で、尾根の両端は掘り切られている。ある種の馬出しと捉えたいところであるが、主郭虎口「あ」および「女坂」と名称されている経路との関連がよくわからない。この経路は必ずしも曲輪Uを経由しなくてもいいように出来ているからである。女坂が当時から存在したのかどうか等、検討する余地がある。
曲輪Vは30×10mほどのほぼ長方形の曲輪で、曲輪W方面に向けて見事な枡形虎口「い」と櫓台がある。この構造から見ても、女坂は当時は存在しなかったか、間道として用いられるだけで、本来的な大手道は曲輪W〜V〜Uを経由するように出来ていた、と考えたい。曲輪Wは二段になっているが、下段に比べて上段は削平も甘く、天然の地山のままの場所も少なくない。狼煙台等のスペースとして使われたものであろうか。
なお、北西側山腹には二条ほどの竪堀があるようであるが、潅木が密生していて先に進めなかった。 |