山間に潜む超絶技巧城郭

小倉城

おぐらじょう Ogura-Jo

別名:玉川城

埼玉県比企郡玉川村田黒

 

城の種別

山城

築城時期

元亀・天正年間(1570-92)前期

築城者

遠山氏(?)

主要城主

遠山氏

遺構

曲輪、土塁、石積み、堀切、竪堀、虎口他

出丸の石積み遺構<<2003年07月13日>>

歴史

元亀・天正年間に遠山氏によって築城されたと伝えられる。『新編武蔵国風土記稿』によれば、遠山右衛門大夫光景の居城とされる。遠山直景は大永四(1524)年、北条氏綱が高輪原合戦で扇谷上杉朝興の江戸城を太田資高の内応で奪取して以来、江戸城代を務めた。その子綱景は永禄七(1564)年の第二次国府台合戦で討ち死に、綱景の子隼人佑(康景)も討ち死にしたため、次男の政景(直親とも)が江戸城代を嗣ぎ、小倉城はその子光景の居城となったとされる。天正十八(1590)年の小田原の役で、松山城の降伏とともに小倉城も落城し廃城となったという。

比企地方には杉山城のような技巧的なお城、菅谷館松山城のような、大規模で優れた遺構を残すお城がたくさんありますが、この小倉城はそれらのお城とはまた一線を画する技巧が見られる、出色のお城です。まずその特徴は圧倒的な石積みの多用です。「関東の中世城郭に石垣はない」というのはもはや過去の説になりつつありますが、小倉城のように「全山石垣」に近いお城は非常に少ないのではないでしょうか。「全山石垣」という表現に疑問を持つ方もいらしゃるかもしれませんが、あちこちに点在する石積みを見るにつけ、「全山」とはいわないまでも、かなりの規模で石積みが見られたことは事実です。

はじめて小倉城に訪れた時、誤算だったのがかなりの残雪が残っていたこと。そのため、歩ける範囲も限られ、石積みも虎口周辺などに所々、顔を出している程度でした。このたび、再訪する機会に恵まれ、一通り歩き回ってみた結果、非常に多くの石積みを目に知ることができました。わかりやすい場所では主郭と二郭の間の堀切南側斜面、主郭の複数の虎口附近などですが、よくよく見ると主郭内の一段高い削平地の縁、主郭周辺の帯曲輪附近、三郭虎口附近などにあちこち部分的に石積みが残っていることに気づきます。そして圧巻なのは主郭南側に伸びる「出丸」の支尾根。ここには岩盤を叩き割った切通し状の堀切がありますが、その周辺、とくに西側斜面から南側の尾根先端にかけてはまさに総石垣状態。高い場所で総高4-5mにも及ぼうかという石積みはその特徴的な積み方もあって、異様な迫力があります。この附近は崩落が激しいため、土嚢によって応急処置がなされています。前述の主郭周辺などの石積みも部分的であるように見えますが、附近には崩落したと思われる石片が散乱し、切岸の表土面にも石が剥落した痕跡(段々になっている)があちこちに見られたことから、現状以上に多くの石積みが用いられていたことが想像されます。石積みは平たく比較的脆い石(緑泥片岩というらしい)をビッシリと積み上げたもので、近世城郭的な「石垣」とは様相が異なっています。むしろ信濃の山城などで見られる布積み手法に近いものを感じました。この山は表面からは気づきませんが、前述の南支尾根の堀切断面を見たところおそらく岩山であり、堀切や切岸の造営時に多くの石材が収集できたものと思われ、石の自給自足ができたのでしょう。しかし、石積みがあるとは聞いていましたが、まさかこれほどの規模とは・・・。縄張的も技巧的な特色を多く備えた、非常に見ごたえのあるお城です。

小倉城の城主はあの江戸城代を務めた遠山氏の一族であるということです。遠山氏はこの地方の在地土豪ではなく、室町幕府奉公衆の流れと見られ、北条氏の初期からの譜代家臣であったようですが、その遠山氏がなぜ江戸城と遠く離れた山間のこのお城にいるのかはよく分かりません。また、この石積みを多用した築城技法や緻密な縄張り、定石に反したかに見える城地の選定(周囲の丘より低い)などが、誰の築城思想によるものなのかも謎です。参考書にさせてもらった「埼玉の古城址」では漠然と、としながらも松山城の上田氏の名を挙げられています。このように、非常によく残る遺構とは裏腹に、実際のところは謎に包まれたお城であるとも言えます。

立地的には嵐山渓谷(都幾川)が大きく蛇行するその間に挟まれた突角丘陵の先端部に築かれており、周囲との比高差はせいぜい5-60m程度ながら、街道を見下ろす絶好の位置にあります。よくいわれることですが、周囲の丘陵の方が高いため、城内を見透かされてしまうという大きな欠点も持っています。とくに背後の尾根続きの後方を敵に奪取されてしまったらお城としての機能をほぼ失ってしまうという欠点はあります。そのために幾重にも及ぶ防御ラインを構えているのでしょうが、別な見方をすれば、そうした欠点を全て黙殺してでも街道監視・封鎖を優先させた結果みることができる出るかとも思います。

見学に行った日現在、主郭附近は発掘作業をやっていました。そのためなのかどうか、比較的どの曲輪も草取りが行き届き、夏場でも藪化はしていませんでした。石塁も崩落防止の応急処置をしたおかげか、表土がほぼ取り払われて、その全貌が見やすくなっています。逆に秋や冬では落ち葉によってこれらの遺構が見えなくなるかもしれません。夏の間に見ておいても損はないでしょう。見学にあたっては、丘陵東側の道路沿いに小さな石柱があり、その奥の細い道からも登れますが、かなり見つけづらいでしょう。むしろ、そこからやや南に下ると林道の入り口があるのでそこから車で入り、数分山道を走ると、比較的わかりやすい登り口が見えてきますのでこちらの方がオススメです。きつい登りもほとんどなく、車も二、三台なら置けますし。

いい撮影ポイントが見つからずイマイチな写真の遠景。丘陵の直下を嵐山渓谷が蛇行しています。このお城はこの渓谷沿いの街道監視のためのものではないでしょうか。 最初に来た日はこんな残雪模様だったのです。一応主要部は見ましたが出丸はパスしました。でも、実は出丸附近が一番スゴかったりする・・・!
尾根続きの西側からの侵入路は高い塁壁で遮られていますが、堀切等は無いようです。この方面が一番の弱点の筈なのになあ。。。 塁壁を迂回する登城路。二郭の西、一段低い曲輪に入る虎口です。虎口の先は土塁と塁壁に挟まれて、堀底道のようです。
二郭の南、比較的大きい腰曲輪に入る虎口。土塁があり、ここに木戸があったでしょう。 左写真の右手斜面下に伸びる竪堀と竪土塁。ここも非常に技巧的で見ごたえがあります。
二郭の南側には沢山の腰曲輪があります。家臣団の集住地だったのでしょうか。 この腰曲輪附近の土塁に、すでにわずかながら石積みの断片が見られます。
二郭の西側に長く伸びる横堀。折れもあります。写真では分かりづらいですが、岩盤をかち割って掘られています。 二郭と主郭を分断する大堀切。ここから見る主郭の塁壁は非常に威圧感があります。
二郭の曲輪内部。周囲には土塁が取り巻いており、塁壁には横矢がかかっています。 二郭に転がっていた小倉城の城址碑。主郭にはもっと立派な城址碑が建っています。
二郭の土塁。土塁は堀切に面した東側以外をほぼ囲っており、先端は高く櫓台のようになっています。 二郭東端の櫓台。前述の横堀を見下ろし、しっかり横矢もかかっています。尾根続きを監視する防御の要ですね。
大堀切の南側の塁壁には高さ1mほどの石積みがあります。 主郭の南側の支尾根を断ち切る堀切。岩盤を叩き割った切通しの道も兼ねているようで、この南の出丸と主郭とは橋で繋がっていたように見えます。
ここからしばらく大石積みエリアです。まず堀切西端付近の石積み、高さは1m前後です。 堀切西端から南を見ると、崩落していますが、長く石塁が連なっています。一部は崩落防止のため、土嚢で補強されています。
出丸東南付近の石積み。このあたりは非常に高さのある石積みが続きます。 出丸南端附近の石積みは場所によって4-5mくらいあるでしょうか。平べったい石を使った布積みの石積みは、信濃の山城の特徴とよく似ています。
出丸南端の石積みは下から見ると威圧感すら感じる高さです。関東版・中世高石垣と言っても言い過ぎではないのでは? 出丸内部の枡形状遺構。細かい部分も技巧的です。この枡形も石積みがあったようです。
主郭南側の腰曲輪から、竪堀を睨む櫓台風の石積み。 主郭南側塁壁の竪堀と思われる附近、多くの石材が散乱し、塁壁には石が剥落した痕跡が残ります。
主郭には複数の虎口があり、どれも堅固な櫓台風の高台を伴っています。これは二郭からの直接の進入路となる主郭北西の虎口。 主郭と出丸を結ぶ虎口。ここにも石積みが見られます。往時はこの櫓台風の場所のほとんどを石積みで覆っていたのでは、と思います。
三郭と主郭を結ぶ虎口。虎口の石積みではここが一番よく残っているでしょう。 左の虎口から登ると、主郭が二段に削平されて、土塁との間の堀底状の道に出ます。
主郭の段差にも石積みが見られます。 主郭は現在、発掘作業をやっている模様。どんな遺物が出土したのでしょう。謎に包まれたこのお城のプロフィールが明らかになるといいですね!
ここも実にカッコイイ、三郭虎口の枡形。 主郭の東側に位置する三郭。丘陵先端部分からの敵、左写真の虎口を突破した敵を撃滅する、ここも防御の要です。
三郭東側の大堀切。写真ではその規模が分かりませんが、上から見下ろすと非常に高さがあります。 左写真の堀切の東側先端部分も堀底道状の遺構が見られます。ここも通路のひとつでしょう。
この日は、尾張からはるばる遠征の尾張ちえぞー殿、むく殿、minaka殿の三人と一緒に回りましたが、このお城の素晴らしさについてはその後も賞賛の嵐でした。

 

 

交通アクセス

関越自動車道「東松山」ICより車20分。

東武東上線「武蔵嵐山」駅より徒歩80分。公共交通機関は無いそうですのでマイカー必須です。

周辺地情報

杉山城菅谷館松山城など。その他、技巧に優れたお城が集まるゴールデン地帯(笑)です。

関連サイト

お城めぐりメーリングリスト」投稿記事が大変役に立ちました。投稿者の皆さん有難うございました。

 
参考文献 「埼玉の古城址」(中田正光/有峰書店新社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)

参考サイト

北条五代の部屋埼玉の古城址、「お城めぐりメーリングリスト」投稿記事

 

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