建武三(延元元・1336)年、大掾氏の家臣、鍛冶弾正貞国(川和田入道)が築いたという。その子貞基のとき、嘉慶元(元中四・1387)年に下野祇園城主だった小山義政の子、若犬丸が難台山城に立て籠もり、鎌倉公方・足利氏満に叛いた(難台山合戦)。この際、大掾氏は幼君であったため積極的な活躍が出来ず、この合戦で討ち死にした江戸通高の子、通景に河和田・鯉淵・赤尾関などが与えられ、河和
田城に入った。
応永二十三(1416)年に勃発した「上杉禅秀の乱」では、水戸城主・馬場(大掾)満幹は上杉禅秀に加担したため水戸領を没収され、江戸通房に与えられた。通房は馬場満幹に水戸城の明け渡しを迫ったが満幹がこれを拒否したため、婚姻などで油断させ、応永三十三(1426)年頃に満幹が府中青屋祭に出かけた留守を急襲し、水戸城を奪取した。以後江戸氏は水戸城を居城とし、河和
田城には家臣の春秋氏を置いた。やがて春秋氏には江戸氏の一族、江戸通式が養子として入り、江戸氏の重臣となった。
天正十六年(1588)十二月、水戸城中で江戸氏の重臣による内紛「神生の乱」が勃発、神生右衛門大夫は額田城の額田照通を頼って落ち延びると、江戸重通は額田氏に神生氏の引渡しを要求、額田氏はこれを拒否、天正十七(1589)年、江戸氏は額田城に軍を派遣した。この際重通は平戸弾正忠、嶋田中務少輔らに軍勢を催促し、上野・長岡・大戸の兵を率いて今晩より河和
田城の守備に当たるよう命じている。
江戸重通は天正十八(1590)年の小田原の役に際し、豊臣秀吉勢に参陣しなかったため、佐竹義宣より水戸城明け渡しを要求された。重通はこれを拒否したため、天正十八(1590)年十二月に佐竹義宣は水戸城を急襲、江戸氏は結城氏を頼って落ち延びた。このとき河和
田城には春秋上野介八郎が守備していたが、河和
田城も落城して春秋八郎も討ち死にしたという。河和
田城もこれにより廃城となった。