復活江戸氏の大いなる飛躍の地

河 和 田 城

かわだ(かわわだ)じょう Kawada-Jo

別名:

茨城県水戸市河和田町

城の種別

平城

築城時期

建武三(延元元・1336)年

築城者

鍛冶弾正貞国

主要城主

鍛冶氏、江戸氏、春秋氏

遺構

曲輪、水堀、空堀、土塁

天徳寺墓地附近の水堀<<2005年03月06日>>

歴史

建武三(延元元・1336)年、大掾氏の家臣、鍛冶弾正貞国(川和田入道)が築いたという。その子貞基のとき、嘉慶元(元中四・1387)年に下野祇園城主だった小山義政の子、若犬丸が難台山城に立て籠もり、鎌倉公方・足利氏満に叛いた(難台山合戦)。この際、大掾氏は幼君であったため積極的な活躍が出来ず、この合戦で討ち死にした江戸通高の子、通景に河和田・鯉淵・赤尾関などが与えられ、河和 田城に入った。

応永二十三(1416)年に勃発した「上杉禅秀の乱」では、水戸城主・馬場(大掾)満幹は上杉禅秀に加担したため水戸領を没収され、江戸通房に与えられた。通房は馬場満幹に水戸城の明け渡しを迫ったが満幹がこれを拒否したため、婚姻などで油断させ、応永三十三(1426)年頃に満幹が府中青屋祭に出かけた留守を急襲し、水戸城を奪取した。以後江戸氏は水戸城を居城とし、河和 田城には家臣の春秋氏を置いた。やがて春秋氏には江戸氏の一族、江戸通式が養子として入り、江戸氏の重臣となった。

天正十六年(1588)十二月、水戸城中で江戸氏の重臣による内紛「神生の乱」が勃発、神生右衛門大夫は額田城の額田照通を頼って落ち延びると、江戸重通は額田氏に神生氏の引渡しを要求、額田氏はこれを拒否、天正十七(1589)年、江戸氏は額田城に軍を派遣した。この際重通は平戸弾正忠、嶋田中務少輔らに軍勢を催促し、上野・長岡・大戸の兵を率いて今晩より河和 田城の守備に当たるよう命じている。

江戸重通は天正十八(1590)年の小田原の役に際し、豊臣秀吉勢に参陣しなかったため、佐竹義宣より水戸城明け渡しを要求された。重通はこれを拒否したため、天正十八(1590)年十二月に佐竹義宣は水戸城を急襲、江戸氏は結城氏を頼って落ち延びた。このとき河和 田城には春秋上野介八郎が守備していたが、河和 田城も落城して春秋八郎も討ち死にしたという。河和 田城もこれにより廃城となった。

室町中期以降、天正十八(1590)年まで水戸附近に勢力を持った江戸氏は、もともとは那珂西郡の豪族、秀郷流藤原氏の那珂氏であり、那珂通辰のとき、南朝に与して敗れ、通辰は自害します(斬られたとも)。その子通泰は山深い高井釣の集落に隠れ住み、のちに北朝軍に降伏して許され、高師泰に従って各地を転戦、その功により那珂郡江戸郷に所領を与えられ、江戸氏を称したといいます。このように江戸氏はもともと独立領主であり、敗れたとはいえ、後醍醐天皇に菊の紋まで与えられた常陸南朝の花形としての誇りは代々胸のうちに伝えてきたことでしょう。

以後江戸氏は常陸守護となった佐竹氏の麾下につき、小山義政の乱の後に勃発した「難台山合戦」では江戸通高らが佐竹氏の名代として参戦、討ち死にしています。このときの戦功により、江戸通高の子、通景は鎌倉府より馬場大掾氏の旧領である河和田周辺の地を拝領、この河和 田城を本拠とします。江戸氏は馬場大掾氏に水戸城の明け渡しを迫りますが、大掾氏はこれを拒否、江戸通房はここで婚姻作戦で相手を油断させ、馬場満幹が府中青屋祭に出ている隙を狙って水戸城を急襲、奪取します。これ以降、江戸氏は水戸城を本拠とし、河和 田城には家臣の春秋氏を置いたとのことです。ですので江戸氏が河和 田城に直接居住した期間はごく短いものでした。が、江戸氏の水戸城入城は、かつて南朝に与して辛酸を味わった一族の完全復興であり、また独立領主への道を進むことになります。以後の江戸氏はたびたび佐竹氏に叛き、ときには刃を交え、ときには「一門同格」の扱いを受けて同盟し、天正十八(1590)年の佐竹氏による水戸城急襲まで代々続きます。河和 田城はいわば、敗軍の将であった那珂氏が江戸氏として生まれ変わり、そして戦国大名化するための通過点であり、大いなる飛躍の一歩を踏み出した地であるともいえます。

河 和 田 城 鳥 瞰 図

※クリックると拡大します。

戦国期の河和 田城水戸城の外縁部の支城、通称「十城十八砦」などと呼ばれますが、春秋氏の手によって維持されていたようです。しかしその規模は実に壮大で、江戸氏の家臣だけの力でこんな居城を持つのは少々不釣り合いな気もします。「神生の乱」の際に在番を命じた書状があるように、江戸氏本家としてもかなり力を入れてこのお城を拡張・改修していたように思えます。地形的には全くの平城といってよく、桜川右岸、比高2-3m程度の自然堤防を用い、水堀を幾重にも巡らせたものでした。周囲の低湿地だった場所と曲輪の平面との比高差は、低いところでは20cm前後くらいしかありません。大雨のときなんかはきっと浸水することもあったでしょう。八坂神社の宅地周囲などは今でもその名残を残しています。面白いのは、城域の真ん中を南北方向に幅50-100mほどの低湿地が走っており、この帯状の湿地帯によって、城域はまるで紙でも破いたかのように、西側と東側に真っ二つに分かれていることです。こうした低湿地を外郭ではなく城内のど真ん中に取り込むというのはかなり珍しいパターンでしょう。このため東側の報仏寺あたりは、あたかも独立した別個の城館のように見えるほどです。

現在では集落の中に遺構が散在しており、主郭周囲の遺構があまり残らないのが残念なところですが、全体としては遺構はまずまず残っているといっていいでしょう。ただし宅地、個人所有地やお寺の敷地などが立て込んでいるので、立ち入り可能な範囲は限られています(図参照)。現在残る遺構そのものは地元の方に大事に守られているようですので、見学の際は失礼のない様、気をつけたいところです。

[2005.10.12]

河和田交差点のすぐ脇にある報仏寺。山門脇に城址碑があります。ここを起点に歩き始めると分かりやすいでしょう。 報仏寺山門の脇にある堀1。空堀にも見えますが、やはり水堀であったと見るべきかもしれません。
仏報寺山門脇の高さ3mほどの土塁。「城郭大系」によればこのあたりが大手口とされています。 テクテク歩いてたどり着いた主郭T曲輪。幼稚園になっていて、かなり改変されています。向こうの山林は天徳寺との間の堀になるのでしょうが、物騒な世の中なので、誤解を避けてこれ以上の突入は断念。
幼稚園と河和田小学校の間の土塁。水戸市の標柱も建っています。この手前の堀は埋まってしまい、よく分からなくなっています。 河和田小学校の校門附近に建つもう一つの城址碑(一応断って撮影しています)。
城域南端附近の八坂神社。ここも虎口のひとつであり、「城郭大系」の航空写真の方ではこちらを大手口としています。ソレガシも、こっちが大手ではないかと思っています。この先は立ち入り禁止区域です。 城域を分断する湿地帯。こういう湿地帯が外側ではなくお城のど真ん中を分断しているというのは相当珍しいのでは。しかしこのあたりも埋められたり、水路建設などで近いうちに相当景観が変わりそうではあります。
天徳寺山門脇の重厚な土塁。 天徳寺の墓地は堀の中に作られています。このように堀が見事に残っているところもあります。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「水戸」IC車15分。

JR常磐線・水戸線「赤塚」駅徒歩15分。

周辺地情報

水戸城は基本アイテム。その近くの見川城も見事です。

関連サイト

 

 
参考文献

「関東の名族興亡史」(新人物往来社)

「江戸氏の研究」(萩原龍夫編/名著出版)

「佐竹氏 水戸城攻略の道を行く」(古市巧/筑波書林)

「常陸国石神城とその時代」(東海村歴史資料館検討委員会)

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

余湖くんのホームページ美浦村お散歩団UshiQネット

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