天目山ニ殉ズ

木部城

きべじょう Kibe-Jo

別名:木部氏館

群馬県高崎市木部町

城の種別

平城(方形居館)

築城時期

不明

築城者

木部氏

主要城主

木部氏

遺構

土塁の一部、水堀痕

木部城跡に建つ菩提寺・心洞寺<<2004年01月03日>>

歴史

源範頼の孫、吉見次郎義世の子孫とされる木部氏の築城という。もともと石見国木部郷にいたというが、木部範時の女が古河公方・足利成氏の室であったために関東に移り築城したという。

木部範虎は箕輪城主・長野業政の娘婿で、武田信玄の上州侵攻に抗戦したが、木部城山名城を落とされて箕輪城に退いた。永禄九(1566)年(あるいは六年)、箕輪城が落城すると木部範虎は下野へ逃れようと乱軍を突破したが、結局武田に降伏した。木部範虎はその後、武田信玄、勝頼に仕えたが、天正十(1582)年三月、武田勝頼が天目山の合戦で敗死したのに殉じた。武田氏滅亡後、範虎の子、貞朝は織田信長の部将である滝川一益に従ったが、本能寺の変によって一益が関東を退去したのちは北条氏直に従った。天正十八(1590)年、小田原の役の際、北条氏直は助命されて高野山へ蟄居したが、木部貞朝はそれに供奉し、のちに大坂で死去したという。

木部氏は源頼朝の弟にして、うっかり失言がもとで頼朝に殺されてしまった範頼の末裔だそうで、戦国期にはこの地方の一土豪として、箕輪城の長野氏の配下だったようです。木部城主の木部範虎は長野業政の娘婿でもあり、武田信玄の執拗な箕輪城攻撃の際もこれに激しく抵抗しましたが、やがて箕輪城も陥落、下野に逃れる途上、榛名湖畔で範虎の室は湖に身を投げた、などという悲話もあります。その後、木部氏は武田氏に降伏しますが、やがて勝頼の代に至り、織田・徳川軍の猛攻の前に武田氏は天目山で滅亡を迎えます。このとき、木部範虎も勝頼に殉じたそうです。前述のように木部氏は武田の譜代などでは決してなく、武田によって降伏を余儀なくされた被占領者だったのですが、一門や譜代ですら逃散した武田氏末期にあって、その最期に殉じた、というのは悲劇的です。さらに範虎の子、貞朝は滝川一益を経て北条氏直に従ったため、おなじみ「小田原の役」で巻き添えを食らい、氏直とともに高野山まで従ったそうです。つくづく運が悪いというか、律儀とでもいうか・・・。

木部城はその木部氏の菩提寺である心洞寺の敷地がそれで、木部氏のお墓もあります。遺構はないと思っていましたが、山門脇から木部氏の墓所にかけて土塁が残り、山門前には水堀の名残と思われる田などがあって、わずかではありますが当時の遺構を伝えています。これは嬉しい誤算でした。「群馬の古城」(山崎一/あかぎ出版)によれば、二重の堀に囲まれたお城であったように書かれていますが、二重堀があったかどうかは現状ではわかりませんでした。城というよりも方形の館を想像したほうが良いようで、戦国期には山名城を詰の要害としていたようです。
心洞寺の裏手は上越新幹線の高架橋になっていて、ときおり新幹線が轟音とともに走り抜けていきます。あと100m路線がずれていたら破壊されてしまっていたかもしれません。

木部氏の菩提寺である心洞寺が木部城の跡です。写真手前の一段低い田は当時の水堀の名残でしょう。 山門脇から南西にかけて、わずかに残る土塁。わずかであっても残ってくれたことは嬉しい。
木部氏の墓所。木部範虎の室(長野業政の女)は箕輪城を落去したのち、悲嘆のあまり榛名湖に身を投げて龍になった、という伝説があるそうです。 心洞寺の真裏を通る上越新幹線。ソレガシもこれにはよくお世話になっているが、一歩間違うとこのお城がアブなかったかもしれない。。。

 

交通アクセス

上州電鉄「山名」駅徒歩20分。

関越自動車道「高崎」ICまたは上信越自動車道「藤岡」ICより車10分。

周辺地情報

詰の山城である山名城、武田軍が築いた根小屋城が素晴らしかった。

関連サイト

 

 
参考文献 「群馬の古城」(山崎一/あかぎ出版)

参考サイト

 

埋もれた古城 表紙 上へ