願文山城(宝塔山城)

2003.05.03

金山城館遺跡群のなかで最も古いといわれる山城、願文山城に行ってきました。ご一緒いただいたのは「越の山路」管理人の瀬賀さんでした。

願文山城は、承久三(1221)年、後鳥羽上皇の院宣を報じた藤原信成の家人、酒匂家賢ら郎党六十余名が立て籠もり、「承久の変」の端緒を切った、といわれる場所です。金山集落内に散在する三浦和田氏系金山氏の城館とは違い、尾根をほんの少し断ち切っただけのごく簡素な山城です。こんな古城と、戦国期の城館群が同居するあたりが、この金山城の面白いところです。

金山集落背後に聳える標高259mの願文山。金山城館群のなかで最も古いもので、三浦和田氏の時代には使われていなかった可能性が高いでしょう。 登山口の白山神社は、三浦和田氏入部前の城氏系「前金山氏」によって創建されたと伝えられます。
登山口は白山神社社殿に向かって右手にあります。高さはそれほどでもないですが、登りは直登に近い、なかなかきつい坂です。 「願文山」と掘られたでかい石。登山道の中ほどにあります。ここで一服していきましょう。
主郭には土塁状の土盛がありますが、これは神社の社殿建設の際のものでしょう。 眼前に広がる金山集落と、かつて塩津潟が横たわっていた田んぼ。水の張られた田んぼがまるでかつての塩津潟のようです。
神社の社殿裏手の堀切。ごく小規模なものです。 左の堀切は小規模ながらも二重堀切でした。写真じゃなんだかさっぱり「?」ですね。。。
主郭の北側、一段低い曲輪には、「忠臣酒匂家賢之墓」があります。 家賢の墓の背後の尾根続きにも堀切がありました。が、この先は「通行はご遠慮ください」とのことで、引き返すしかありませんでした。

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