山並みが延々と拡がる上総中央部。久留里街道や大多喜街道は、道路や建物こそ新しくなったものの、街並みや地形に中世の影を色濃く残していて、ちょっとしたタイムスリップ感覚が味わえる。自宅から車で一時間半ほど、日帰りで気楽に味わえる中世の情景(もっとも、中世の街を見たわけではないのであくまで僕の空想の世界だが)と山並みが好きだ。その上総の山並みが危機に瀕していることを今回改めて目の当たりにした。
木更津南ICから国道127を南下し、君津市街地で東に進路を取る。そこには、黒々と横たわる上総の山並みがあった。いや、あるはずだった。しかし、現実に目の前にあるものは、土取りで無残にも赤茶けた山腹をさらす、「山の死骸」だった。しかも、その山の死骸はどこまで走っても尽きることなく、そして今では、東京を中心とした近郊の「残土捨て場」になっていた。
秋元城で出会ったI氏に聞いてみた。「いや、あんなのは高度成長期からずっと続いてるんだ。」
僕の故郷の新潟県の村では、観光資源として「ぶどう園」を開発するために、子供の頃から見慣れた山がひとつ、まるまる消えた。別にその山で遊んだ記憶などは無いけれども、故郷で過ごした少年時代、そこには山があることがあたりまえで、いわば僕にとっての原風景のひとつだった。だから、別段思い入れのある山ではなかったけれども、赤茶けた山腹をさらすその山を見て、僕は悲しくなった。どうしても必要なモノを作るために犠牲になったわけじゃない。僕にとってそこにぶどう園ができるかどうかなど、全くどうでもいい話だ。いや、そこで暮らしていた植物や生き物たちは、大切な住処を失い、そして僕は原風景のひとコマを失った。僕には、山が断末魔の中で嘆き、悲しみ、泣いているように見えた。上総の山々は、もうかれこれ40年近くもこういった破壊が行われている。いや、上総やぼくの故郷だけでなく、日本中、世界中で同じ事が行われている。何億年もかかって形成された大地を、人間はわずか数十年で二度と取り戻せないほど破壊し、そしてその破壊は今でも続いている。僕は極端な自然保護者ではない。時代にあわせて住宅を供給し、道路を作り、港湾や工場を作ることもやむを得ないと思っている。いや、土地利用とは本来そうあるべきなのだ。しかし、上総で行われている山殺しは、土地利用なんかじゃない。地球に対する徹底的な破壊行為、犯罪行為ではないか。
上総の内陸地は、小櫃川、小糸川などの中小河川が流れ、海抜100から300メートル弱の丘陵が延々と続く。川沿いの決して広くは無い平地に、集落が点在している。その、猫の額のような土地を巡って、里見氏や真里谷武田氏、正木氏、海の向こうから攻めてきた小田原北条氏、そして名も知れぬような在地土豪、地侍たちが争い、血を流した土地だ。「一所懸命」という言葉を噛み締めたければ、上総の山間の街道を走ってみるといい。点在する集落には、ちょっと見ただけでも由緒ありそうな家屋や、中世の城館であっただろう土居、そして村を守る地侍、土豪たちが拠ったであろう山々が連なっている。この狭い山間の土地にも、人が暮らしている。
だから、どんなに辺鄙な場所でも、不毛の場所でなどありえない。僕のような城マニアにとっては、どこもそのまま生きつづけている中世そのものであり、中世城館の宝庫のような場所だ。土取りで死んでいった山々にも、きっと多くの城館と、そこに暮らした人々の生活があったのだろう。しかし、それらの山々は無残にも削り取られ、こんどこそ本当に不毛の土地になろうとしている。残った土地はゴルフ場にでもなってしまうのだろうか。上総はゴルフ場が異常なほど多い土地でもある。地元雇用を確保する上で、ゴルフ場もあっても悪くは無い。しかし、あのバブルの時代に乱開発したゴルフ場の多くは今や青色吐息、閉鎖してしまったゴルフ場も多い。しかし、閉鎖されたゴルフ場も、元の山に戻ることは、二度とない。あるいは、建設中の館山道の残土捨て場になり、残土にまぎれて怪しげな廃棄物まで、近隣に悪臭と汚水を撒き散らしながら、埋められようとしているとも聞いた。
館山道に反対しているわけじゃない。いや、安房地方の交通網を考えれば、館山道は絶対に必要だ。あまりにか細い道路網は、上総・安房の人々の生活に少なからず影響を及ぼしている。だから、一日も早く館山道を通すべきだと思っている。しかし、そのために山が、集落が、城館が消えていくとしたらどうだろう。なにか知恵を絞れば、山を、集落を、城館を破壊しない方法で道路が通せるのではないか。そういう知恵を身につけて、自然や歴史と共存できる道を探るべき時に、我々は来ているのではないだろうか?
環境問題、と言ってしまうと、温暖化や海面上昇、オゾン層破壊とか、河川や海の汚染を思うかもしれない。それはそれで重要な問題だ。でも、もっと身近に、わかりやすく考えれば、我々は今、どこにでもあった景色、人それぞれが持つ原風景を永遠に失おうとしている。大きく考えることも大切だけれど、こうした「危機」が身近に迫っていることを、すべての人々、とくに次代を担う子供たちに考えて欲しい、と思う。
といっても僕にも妙案は無い。エアコンの無い生活、テレビの無い生活、クルマの無い生活にはもう誰も戻れないだろう。でも、何もしなければ確実に上総だけでなく、日本すべての自然や歴史的遺構は間接的にダメージを受けつづけていく。今日も明日も、山々は削られ、赤土の血を流し、死んでゆく。今は何も妙案は無いけれども、「考える」ことを始めなければ、何も始らない。