城地は、青葉山の断崖と、蛇行する広瀬川の急流に守られた、まさに「天然の要害」となっています。戦前まで大手門が残されていましたが、戦災で焼失、現在は大手門の隅櫓のみが復元されています。しかし、この大手門の位置、二の丸と本丸の間に位置しておりまして、三の丸は大手門の外にあたります。こういう縄張って、珍しくないですか?他にもこの仙台城、他の城郭にはあまり見られないような特徴があります。まず、本丸と他の曲輪が結構距離がある。まあ築城年代の違いと言ってしまえばそれまでですが、いわゆる本丸と他の曲輪の関係が、平時の居館と有事の要害、といった位置付けに見えてしまいます。行ってみれば、三の丸〜二の丸は近世平山城風、本丸だけ中世山城、というような関係です。
本丸から眺めてみると良く分かるのですが、広瀬川が大きく迂回するように蛇行している部分に伊達家の廟所である瑞宝寺(瑞宝殿)があって、普通に考えれば砦、出城として利用しない手は無い!という位置にあります。実際に行ってみると想像どおり、廟所を装った出城であることは一目瞭然です。伊達二十二要害といわれる出城を抱えていた伊達藩のこと、十分納得できます。もしかしたら政宗の遺言であったかもしれません。
現在、石垣の修復作業とその後の丑寅櫓の再建の工事が行われていますが、この石垣修復にはひと悶着あったそうで、修復のため石垣を除去したところ、その下にさらに二層に渡って古い石垣の跡が発見されたとのこと。最も古い石垣は野面積みのもので、初代政宗のころの遺構と見られていますが、悶着はここで起きました。すなわち、政宗時代の遺構を復元したいという「歴史派」と、四代以降の高石垣を復元すべきという「観光派」の論争がそれで、結局は観光派の意見が採用されたそうです。なぜ「観光派」なのかというと、仙台城のシンボルとも言える丑寅櫓は後世の石垣の上に建っていた為で、石垣を古い時代のものにしてしまうと当然、丑寅櫓は建てる場所が無くなり復元できない、それじゃ観光客の入りにも影響する、というのがその言い分です。
たしかに、目立つ櫓があることは観光にとって大きなプラスになりますし、そこに三層の櫓が建てば、遠くからでも非常に見栄えがするでしょう。かといって、やはり僕個人的にも、あるいは市民の多くにしても、政宗公を慕う気持ちは強いものがあり、その政宗時代の遺構をどれだけ重視するか、というのは難しい問題ですね。また復元計画には、懸け造り御殿の復元や、三の丸地区からのエスカレータ設置なども検討事項に含まれているようです。
個人的には、懸け造りの御殿はとっても見たい気がするのですが、中途半端に目立つ建物を復元するよりは、石垣だけの城址でもいいんじゃないかな?とは思います。とくに、エスカレータ計画については景観を大きく損ねそうだし、なによりそれに伴って現存遺構の破壊が起こりそうでそれが心配です。むしろ、半端じゃない交通量の道路をすこし拡幅する、あるいは遊歩道を車道とは別にきっちり整備する、とかのほうが良さそうな気はしますけどね。狭い大手道の交通量は結構激しくて、徒歩での見学は結構怖いですからね。
とにもかくにも、名城と言うに偽りはありませんが、本当の城郭らしい遺構は本丸内よりもむしろ大手門〜詰めの門の間の食い違い虎口、曲輪の道沿いの野面積み石垣群、本丸を取り巻く苔生した石垣などにあります。とくに曲輪の道は城郭ファンなら必ず歩いてみるべし!きっと観光地でない仙台城の姿に、満足できるはずです。