躑躅ヶ崎館めぐり

「武田神社」は多くの観光客、参拝客で賑っています。

しかし、いたるところに土塁、堀、土橋など、戦国期らしい

遺構を見ることができます。

在りし日の信玄は、ここから信濃や上野、

そして川中島に向かっていきました。

元亀三年の秋、京を目指してこの門を出陣した信玄は

翌年、信州駒場にて逝去。

ふたたび館の門をくぐることはありませんでした。

 

甲府市内の一大観光地でもある武田神社。かつて風林火山をはためかせ、戦国最強と謳われた武田信玄その人の居館です。 武田神社正面の橋と堀。かつてはここには橋はなく、東側に大手がありました。堀も本来は空堀だったようです。

東側土橋の石垣。現在は南側の水堀に橋がかかっていますが、当時はここが大手でした。 大手前の馬出し跡。馬出しという構造物自体、単なる居館ではない、小なりとはいえ戦国期の城郭であることを感じさせます。
馬出しに残る石垣。意外だったのが、あちこちにこの石垣が見られることですね。 信玄公使用の井戸。
一般公開されていない天守台石垣。竹薮と雑草に覆われ、崩れかかっています。武田氏の後、平岩氏の頃の遺構。 西曲輪へ向かう虎口の土塁。
西曲輪の空堀。 西曲輪から北曲輪へ向かう土橋と空堀。西曲輪が最も戦国期の城郭らしさを残しています。
北曲輪馬出し付近。土塁と、わずかに石垣が残ります。北には要害山も。 東曲輪から西曲輪にかけての堀。一重の堀ですが折もあり、単純な方形館から進化したものになっています。
西曲輪南側が梅翁曲輪と呼ばれた馬出し。面影はありません。かつてはこの先に、キラ星のような武田の諸将の屋敷がありました。 住宅地の中に残る信玄公の墓所。館からは少し距離がありますが、新しい花が供えられていました。
円光院の三条夫人(信玄公正室)婦人墓所。賢妻だったという説と、ヒステリックな女性だったという説があります。どちらも本当なのかもしれません。 こちらは信長配下の武将・河尻秀隆の慰霊碑、河尻塚。住宅の片隅の空き地に寂しく佇んでいます。秀隆は本能寺の変の後、一揆勢によって惨殺されました。しかし、信玄公墓所に比べてあまりに悲惨な・・・。
武田菱の打ってある積翠寺と詰城の要害山城 積翠寺の「信玄公産湯の井戸」。

時間の関係で要害山城には行けませんでした。次回はぜひ! 

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