中世の創意工夫に学ぶ

勝沼氏館

かつぬましやかた Katsunuma-Yakata

別名:

山梨県東山梨郡勝沼町勝沼

(史跡勝沼氏館)

城の種別

平城(崖端城)

築城時期

十五世紀頃  

築城者

勝沼氏

主要城主

勝沼氏

遺構

曲輪、空堀、櫓台、水路 等

復元整備された勝沼氏館の生活遺構<<2003年04月19日>>

歴史

武田信虎の弟、五郎信友が居住し勝沼氏を称したというが、発掘調査からは十五世紀にすでに館が築かれていたことがわかっている。勝沼五郎信友は永正十七(1520)年、岩殿七社権現棟札の筆頭に「武田左衛門大輔信友」と記されており、また大永六(1526)年の境川村石橋八幡社棟札にも武田信虎と並んで名が見え、その勢力の大きさが伺われる。勝沼信友は天文四(1535)年八月二十二日、北条氏綱との戦いで都留郡で戦死した。

信友の跡は五郎(丹波守)信元が嗣ぎ、天文十一(1542)年の信濃大門峠の合戦、天文十五(1546)年の上信国境の笛吹峠の合戦、天文十六(1547)年の信濃海野平の合戦、天文十九(1550)年の信濃深志城攻略、天文二十二(1553)年の信濃桔梗原での小笠原長時との合戦などに従軍している。

永禄三(1560)年十一月、勝沼信元は逆心を企てたとして武田信玄に誅殺され、勝沼氏は断絶した。雨宮家に嫁していた妹は離縁され、勝沼の柏尾山大善寺に入り理慶尼と号した。

勝沼信元は、武田信玄の父・信虎の弟である五郎信友の子ですから、信玄にとっては従兄妹にあたりますが、永禄三(1560)年、謀叛の罪により誅殺されてしまいます。この間の事情ははっきり分かりませんが、雁坂峠を越えた先の武蔵国の有力国人領主である藤田氏の誘いで上杉方に内応したのではないか、ということです(異説に大石氏に内応したとも)。永禄三(1560)年といえば謙信の関東遠征が始まった年であり、また翌年有名な「第四回川中島合戦」が繰り広げられることからも、甲越の対立は極限を迎えていた時期でもあります。そんな中で信玄に非常に血筋の近い勝沼氏が謀叛を企むような理由があったのかどうか、なんとも謎めいたお話です。この時期の武田の家臣団というと何となく鉄壁の結束で固められているようなイメージがあり、また越後勢には相手方に内応を促すような謀略戦はやりそうもないようなイメージがあるのですが、生き馬の目を抜く戦国乱世のこの時代、こんな事件があっても不思議ではないのかもしれません。この事件によって、勝沼氏は断絶となり、信元の妹は嫁ぎ先の雨宮家から離縁されて落飾し、大善寺に入りました。この女性が理慶尼と呼ばれる尼僧で、天正十(1582)年三月、新府城を捨てて郡内の小山田氏を頼って笹子峠へ向かう途上の武田勝頼一行がこの尼僧を頼って大善寺を訪れています。理慶尼にしてみれば、武田に対して怨み辛みもあったかもしれませんが、この勝頼一行に一夜の宿を提供し、勝頼夫妻(夫人は北条氏政の妹)は現在は国宝として知られる薬師堂で一晩を過ごしたそうです。勝頼らはこの大善寺を出立した数日後、小山田氏の叛乱に遭い、にっちもさっちも行かなくなって天目山の麓、田野の地で滅亡を迎えます。理慶尼はこの間の出来事を女性らしい、仮名混じりの仏教色の強い文体で書き記しており、『理慶尼記』として伝わっています。『理慶尼記』は別名『武田勝頼滅亡記』としても知られますが、淡々とした語り口や無常観漂う文体は『理慶尼記』の名のほうが相応しく思えます(偽書説もありますが)。

勝沼氏館は笛吹川上流の日川に面した崖の上にあり、古くから城館があることは知られていたそうですが、一躍脚光を浴びることになったのは 昭和四十八(1973)年の「ワインセンター」建設に伴う緊急発掘調査だったそうです。その後七次にも及ぶ発掘調査では堀や土塁、石塁といった防御遺構はもちろん、水路跡や浄水施設、台所跡と見られる焼土層など、数々の生活遺構が出土しました。これらは概ね四期に分けて拡張されてきたそうで、最も古いもの(第一期)は十五世紀のものとのことですから、五郎信友以前の在地土豪・勝沼氏の館だったのかもしれません。最も新しいものは十六世紀中・後期ごろのもので、時代的にも勝沼氏断絶のエピソードに合致しています。勝沼氏館、などと控えめな名前で呼ばれていますが、実際には外郭部を拡張した、城構えと呼んでもいい規模の城館であったようで、一部はワインセンターが建ってしまいましたが、主郭部分は保存されることに決まり、現在では小奇麗な史跡公園として整備されています。また、ワインセンター周辺の外郭部も発掘調査や整備が続いているようです。まだ発掘中の場所もあり全体の縄張りはわかりませんが、おそらく三郭程度の崖端城の形態をとっていたのではないかと思います。

で、勝沼氏館の見所ですが、もちろん復元整備された堀や土塁もいいのですが、ソレガシ的には前述の生活遺構がやはり気に入りました。発掘調査では建物の礎石や掘立柱跡、水路、貯水施設、工房と見られる鉄滓、便所、台所と見られる焼土層などなど、中世の豪族の生活を偲ぶ成果物がたくさん見つかったということで、現在はそれらが一部復元されて展示されています。最初復元遺構を見たときは「ホントにこんなだったの?」などと思いましたが、後日たまたま入手した本に発掘時の写真が沢山掲載されていて、それを見ると現状の公園は発掘成果に忠実に再現されたものであることを知りました。主殿や「常の御座所」あたりは意外なほど小ぶりですが、大名級ではない国人領主の居館というのはこんなものだったのかもしれません。水汲み場なんかを見ると、少女時代の理慶尼がここで水を汲んでいたかもしれない、そんな妄想に捉われます。何より感心したのが浄水施設、これは主郭より100mほど東の外郭部に復元されているのですが、用水を沈殿槽に引き込んで、綺麗な水と泥水に選り分け、底に溜まった汚泥は下水に流してしまうというもの。今の目で見れば単純といえば単純な仕組みですが、「科学技術」なんていう言葉すらなかった当時の人々が、代々伝わる技法に改良に改良を加えて新しい生活の知恵を搾り出しているようすが目に見えるようです。昔のひとびとの創意工夫に見習わなくちゃね。

なお、主郭と浄水施設のある外郭部にはさまれた場所も現在発掘調査が行われているようで、こちらもますます楽しみです。

[2004.11.14]

勝沼氏館平面図(左)、鳥瞰図(右)

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日川対岸から見る勝沼氏館。断崖に面した堅固な崖端城です。昭和六(1931)年に架けられたという祝橋のアーチ姿も美しいです。 勝沼氏館の内部は発掘調査に基づいて史跡公園として綺麗に整備されています。これならオールシーズンOKですね!
主郭の周囲をめぐる堀1。外郭からの深さは2m程度です。 反対側から見た堀1。高い土塁も印象的です。このあたりはかなり復元による手が入っていると見ていいでしょう。
模擬橋が掛けられた北門。奥は武者溜りになります・この外側にも曲輪があったようですが、ぶどう畑になっていて入ることができませんでした。 模擬橋(奥)と空堀2。この堀は土塁の内側に築かれており、東側では消えてなくなります。北門の防備を固めるための部分的な改修と見ていいでしょう。
館の中心部、主殿(主屋・手前)と常の御座所(奥)。いずれも回縁を持つ礎石建物だったようですが、規模は実に小さい。 賓客の対面所となった会所。ここも回縁の礎石建物だったようですが、こんなに狭くて回縁もあったんじゃ、部屋の中は茶室並みの狭さだったでしょう。
ここの魅力は内郭をクネクネ走る水路遺構。ここは工房水溜。刀鍛治などに利用したのでしょう。 内郭を仕切る土塁、と思いきや、築地塀の跡(一部)だそうです。この奥(東側)が城主のプライベートゾーンになるのでしょう。
台所周辺の水場遺構。少女時代の理慶尼もここで水を汲んだりしていたのかな。 雪隠、トイレです。掘ると臭うかもしれません(嘘)。台所と近すぎて、O157などの感染症が多少心配ではあります。
東門脇にある櫓台。といってもとても小さいもので、あまり見栄えのする建物はなかったでしょう。 土塁上から見る東門。門の外に小規模な枡形空間があり、石積みの上に橋が懸かっています。無論、復元です。
東門を堀底から。基本は土のお城ですが、要所要所には石積みもあったようで、躑躅ヶ崎館との共通点も想像されます。 ワインセンター脇の畑地では、今もなお発掘作業が進んでいました。今後の成果がまたまた楽しみです。
主郭の100mほど東の外郭部は、中世の浄水場施設が復元展示されています。遠い時代の人々の知恵の足跡がそこにあります。 これが深沢用水の水を受ける受水槽、言われなければ水堀かと思ってしまう。
ちょっと分かりにくい写真ですが、畝堀みたいな形の堰門。この堰で水の汚れを沈殿させ、綺麗な水だけが用水として内郭に引き込まれます。 左の溝が汚泥処理用の排水路、右が上水路。科学もヘチマもない時代の人々の創意工夫に感動。
外郭部に復元された土塁。本来の館は結構大きな城館であったようです。 外郭部に復元された武家屋敷。屋敷といっても掘立の粗末なものですが、中世の武家屋敷ってこんな感じだったんでしょう。柱や梁なども本格的です。周囲には厩や井戸などもあったようです。
駐車場脇の、理慶尼が建立したという勝沼氏の供養の地蔵、当時のものは失われ、近年子孫の方が再建したものだそうです。 附近の大善寺に眠る理慶尼の墓。婚家を追われ落飾した理慶尼は武田滅亡の悲劇をも目にすることに。その無常観溢れる世界は「理慶尼記」として残されています。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「勝沼」ICより車10分。

JR中央本線「勝沼不動峡」駅より徒歩20分。  

周辺地情報

甲府方面なら躑躅ヶ崎館要害山城をセットで。郡内なら岩殿城。武田氏滅亡の軌跡を辿る笹子峠、天目山古戦場コースや大善寺(拝観料が高いですが)もオススメ。

関連サイト

 

 

参考文献

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「武田信玄 城と兵法」(上野晴朗/新人物往来社)

参考サイト

 

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