石垣山城めぐり

晩年は我が子の行く末に狂い、

朝鮮半島に二度にわたって無益な戦争を仕掛け、

贅を尽くした建築趣味で民と諸大名を疲弊させきった太閤秀吉。

しかし、天正十八年、全国統一に向けて小田原城の北条氏を包囲した頃の秀吉は

まだまだやり手でした。

奇策・一夜城。

それは陣城と呼ぶには、あまりに本格的な築城でした。

このような崩れた石垣がいたるところに転がっていて、時の流れを感じさせます。 二ノ丸曲輪。向こうに見える高台が本丸曲輪。
二ノ丸の櫓台土塁。小田原城が、いや、小田原城からよく見えたことでしょう。 二ノ丸展望台から見る小田原城。たったの3kmですからね。小田原城籠城兵から見れば、目と鼻の先に一夜城を作られちゃったわけですね。
本丸曲輪を取り巻く石垣。ここも至るところ、崩落している。 木立の中の本丸曲輪。
本丸曲輪には天守台もある。どんな天守があったんでしょうか。 天守台裏側の崩落した石垣。
二ノ丸から細い道を下ると井戸曲輪へ。 井戸曲輪の石垣。野面積みの古めかしい石垣は、何ともいえぬ迫力がある。
石垣に囲まれた井戸曲輪。中央に井戸があります。陰惨な雰囲気の曲輪です。 これが井戸。わずかですが水が湧き出しています。こういう井戸を「さざえ井戸」と言うんだそうです。
西曲輪。結構広い。ここで秀吉は、茶の湯に興じたり、茶々とちちくりあったりしてたのだろうか。。。 こちらは南曲輪。石垣山城は小田原城攻撃の陣城だったにもかかわらず、このように複数の曲輪を持つ本格築城だった。
南曲輪の石垣の角。築城に借り出された穴太衆の技法がここで見られます。 「太閤林道」側から見た南曲輪の石垣。この方面の石垣はよく残っている。
本丸から相模湾を見下ろす。小田原攻めのときは、この海を豊臣軍の軍船が埋め尽くした。 間違って入ってしまったターンパイクにある「太閤憩の泉」。ターンパイクから一夜城へは行けません。

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