2006年11月26日、那珂市教育委員会による「高野氏館発掘現地説明会」に行ってきました。高野氏館は那珂市内の菅谷字中宿東に所在する、方形の居館でしたが、このたび残念ながら宅地開発のため記録保存(要するに消滅)されることになりました。
この説明会後、約一ヶ月(12月中旬頃まで)はこのまま残るようですが、その後は開発工事が始まります。消え行く中世城館の最後の一瞬の光芒を残りの数週間でもし可能であればぜひ皆さんにも見届けて頂きたく思い、緊急でアップしました。
以下、説明会の要点です。
・この館の主は高野氏といい、八田知家の系統(つまりは小田氏系か)と伝わるが、当地に土着した経緯は不明
・廃城後は畑などに転用されることが無くそのまま山林となったらしい。そのため遺構の残存度は大変良い。
・井戸は5箇所見つかった。この程度の規模の館としては数が多く、なぜこれほど掘ったのかは不明(水質が悪かったからか?という考え方もあるとのこと)
・長方形の土壙(どこう)が数箇所出土しているが、用途は不明である。副葬品である銭などは出土しておらず、墳墓ではないらしいという見解。
・周囲の堀は水堀である。土塁はほぼ全周していた。土塁は堀の土ではなく、郭内を低く削った際の残土を用いているらしい。なぜそのようなことを行ったのかは不明。
・虎口は南西の一箇所のみで、矢倉門のような構造物と曳き橋(木橋)があったらしい。
・建物は掘立式のものばかりで礎石建物の痕はなかった。主殿にあたる建造物が中央付近に、その裏手に倉のようなものであったと推定される。
・全体に生活痕を示す遺物は少なめ(写真参照)
ここからは私見ですが、どうもこの館には外郭の郭もあったように思います。館の北側のわずかに残る竹林の中に堀痕らしきものがあり、また東側の低地も堀もしくは沼沢地であったように思います。この地方の平城は非常に複雑な縄張をもっているものが多く、この高野氏館だけ単郭の単純なものであったとも思えません。まあこれは周囲がほぼ新興住宅地として開発されつくしていますので、今となっては確認は難しいとは思いますが・・・。また水堀はおそらく南西角あたりに湧水点があるものと思われ、非常にゆっくりですが北東角に向かって流れています。地形的にほとんど肯定差は感じられませんが、南西から北東に向かってごくごく緩い傾斜があるようにも思えます。こんなところにも注目していただくと良いのでは、と思います。
(なお現地説明会は終了していますので、これから行かれる方は工事や安全管理の妨げにならぬようお願いします。)
「GoogleMap」の航空写真に発掘作業直前時のものと思われる高野氏館の鮮明な写真があります。また、この写真からは高野氏館周辺の水利(旧河道、溜池、水路)が読み取れ、外郭らしきものも一部推定できます。
現場説明会当日配布資料(PDF形式、転載禁止)
「那珂市 高野氏館跡 発掘調査現場説明会」平成18年11月26日
※本資料の掲載に当たっては、那珂市教育委員会様、ならびに有限会社日考研茨城様の許可を得ています。
なお、遺物および発掘時の写真は将来、那珂市歴史民俗資料館に展示される予定です。
[2006.11.27]