長沼城は結城一族の長沼氏がこの地に住み着き、その善政を慕われて土地の名前にもなった、ということです。長沼氏は結城氏初代の朝光の五男朝良を祖とし、その後の長沼秀宗は永享の乱で足利持氏に与して自刃した、あるいは結城合戦において結城氏朝・持朝父子と袂を分かち、結城城を退転して、のちに自刃した、ともいわれます。この長沼氏に発する家系としては、下野の皆川城を居城とした皆川氏などもいます。築城時期もはっきりわかりませんが、「長沼朝教」という名前から察すると、六代将軍義教の偏諱を受けてるとも考えられ、想像を逞しくすれば、結城合戦で長沼氏の家内にもどちらに味方するか意見が割れ、幕府軍に着いた一族が新恩としてこの地を賜り築城した、とも考えられそうです。となると、築城は嘉吉年間頃かな。まあ想像ですが。
しかしここ成田は千葉氏の勢力範囲の真っ只中、戦国期には衰えたりとは云えども、名にし負う「千葉王国」の只中に結城一族が入り込む余地があったのかいな?そんな素朴な疑問が湧いてきます。千葉王国の首都である本佐倉城なんかも近いわけだし。長沼氏の善政を慕ってその名が地名になった、ともいいますが、それは如何なもんでしょう。すぐそばにはかつて昭和三十年代まで「長沼」という湖沼があったそうですが、沼にまで「長沼」という名を残す、というのも不自然かと思います。「余湖くんのホームページ」でも解説されているように、あくまでもこの地に住む豪族が長沼の地名を姓にした、と考える方が自然でしょうし、そう考えると「結城一族」っていうのも限りなく怪しくなり、千葉氏の一族か、あるいは千葉氏の縁戚となった在地土豪、と考える方が自然でしょう。
長沼城の遺構の特長としては、基本的に独立丘の頂部を均しただけの単郭のお城なのですが、周囲に横堀状の遺構が取り巻いているところでしょう。この横堀、帯曲輪と見るか横堀と見るか微妙な形ではあるのですが、どちらにしても主たる曲輪の城塁の下部に一段設けるという発想自体は一緒です。成田市内では広の台城や寺台城などに腰曲輪または帯曲輪状の遺構が見られるので、この地域にはこうしたお城が多いのかもしれません。あるいは、助崎城を筆頭に大須賀氏系のお城にもこうした特徴が見られますので、長沼氏の出自を含めて何か関係があるのかもしれません。独立丘であることと周囲が沼地であったことから、それ以外の防御はあまり見られず、堀切や水堀などはありません。土塁も顕著なものはなく、主郭の一部に古墳のような高まりがあるのみです。ここは櫓台だったかもしれませんが、あまりはっきりした形ではありません。
長沼城は成田市内で唯一城址公園として整備されているところだそうで、主郭周りは綺麗に整備されていますが、前述の横堀あたりは結局藪コギをするしかありません。ただあんまり人はいなそうなので、人目をはばからずに藪コギできるっていうメリット(?)はあります。