前野将右衛門の想い描いた「男の一生」とは

有子山城

ありこやまじょう Arikoyama-Jo

別名:出石古城、高城、山名氏城

兵庫県出石郡出石町内町

城の種別 山城

築城時期

天正二(1574)年

築城者

山名祐豊、氏政

主要城主

山名氏、羽柴氏、前野氏、小出氏

遺構

曲輪、石垣、堀切、竪堀、土橋

古色蒼然たる本丸石垣<<2001年11月23日>>

歴史

もともとは北方2kmの此隅山(子盗山)に、但馬国守護職で、室町幕府の侍所長官を務めた四職家の山名氏の本拠が置かれていた。山名氏は室町期に十一カ国の守護を務め、「六分一殿」と呼ばれたが、明徳二(1391)年に山名氏清はその勢力を危険視した室町幕府三代将軍・足利義満の討伐を受け敗北、守護職を三カ国に減じられた(明徳の乱)。また山名持豊(宗全)は管領・細川氏と対抗して応仁元(1477)年から十年に渡る「応仁の乱」を引き起こし、西軍の中心勢力となった。しかし、こうした戦乱による疲弊や近隣勢力の台頭により、戦国期には衰退した。

永禄十二(1569)年、織田信長の将、羽柴秀吉により此隅山城が陥とされ、山名祐豊、氏政父子は城を脱出、天正二(1574)年、新たに有子山城が取り立てられた。落城した此隅山城を嫌ったことと、「此隅」の音が「子盗」に繋がることから「有子山(ありこやま)」と命名し新城を築いたといわれる。しかし天正五(1577)年からの織田信長の一次但馬攻略、天正八(1580)年の第二次但馬攻略で羽柴秀吉軍により再度落城、山名氏政は因幡に出奔した。

その後は秀吉の弟、秀長の管轄下で木下昌利、続いて青木勘兵衛が城代を勤め、天正十三(1585)年には前野将右衛門長康が但馬十一万石の国主として入城した。しかし前野将右衛門は文禄四(1595)年、嫡子景定が関白豊臣秀次の失脚に連座して切腹となったことを受けて自刃、替わって播磨龍野城から小出吉政が任じられた。

慶長五(1600)年の関ヶ原の役で、小出氏は家名存続のため秀政・吉政父子は西軍、吉政の弟・秀家は東軍に分かれて闘ったが、秀家の軍功により吉政は西軍に加担したことを許され出石の本領を安堵された。吉政の嫡子である吉英は慶長九(1604)年、山麓に新たに出石城を築城し、有子山城を廃城とした。

木曽川流域の地侍、というよりむしろ、野盗まがいの日々を送っていた前野将右衛門。蜂須賀小六らとともに「川並衆」として、信長の、というより秀吉の手足となって美濃攻略などに活躍しました。その秀吉は破竹の勢いで天下人となり、将右衛門長康は但馬十一万石の大名として、この出石有子山城を授かります。しかし、天下を握った秀吉はかつての秀吉とはまるで別人、無用な戦と豪奢な建築趣味で諸大名や民衆を疲弊させます。悩める将右衛門に引導を渡したのは、秀吉の養子として関白の座を嗣いだ豊臣秀次の失脚。秀次は切腹、将右衛門の養女をはじめとした愛妾や一族はことごとく斬首され、秀次の近習として仕えていた将右衛門の嫡子、景定も連座し失脚、腹を切ります。懐かしい、雄大な木曽川の川面と、いつも将右衛門の影で微笑んでいた亡き妻あゆ、そして「籐吉郎」と呼ばれていた頃のかつての秀吉の姿に思いを馳せながら、将右衛門も京都千本屋敷で、将右衛門なりの「男の一生」に「けじめ」をつけるのでありました・・・。

「武功夜話」をベースとして、前野将右衛門というひとりの男の生き様を美しく、もの哀しく描いた、遠藤周作先生の「男の一生」という小説は、僕の最も好きな小説のひとつです。読むたびに心に染み渡る、美しい小説。電車の中なんかで読むのはちと辛いですね、いつもグッときてしまいますんで。。。「権力」を手に入れて変貌してゆく秀吉、それに抗えず苦悩する将右衛門、そして自ら、彼なりの「男の一生」に幕を引きます。きっと彼は、この有子山城から、長年連れ添った妻のあゆと愛娘の待つ、懐かしい木曽川に還って行ったことでしょう。

その将右衛門が最も高いところに登りつめた舞台、出石有子山城を目指しました。その前に竹田城を心行くまで堪能して、一路、出石へ。山麓の出石城は近世城郭で、「ちょいちょい」と見学できますが、その背後に控える中世の有子山城はというと・・・背後に思わず空を仰ぎたくなるような高峰が・・・。た、高い・・・!しかも急峻。駐車場のオジサンに恐る恐る聞いてみる。「有子山のお城は、この山ですか?」「そうだけど、あんた登るの?大変だよ。5時間掛かるよ。」ついつい強がりで「いやあ慣れてるから。」なんて言ったものの、危険な香りが漂う。しかしオッサン、5時間はかからんと思うぞ。。。

出石城の稲荷脇の山道から登山道がありますが、出た!直登の急な尾根筋!しかも足元は苔生した岩場で滑るの何の。久しぶりにゼエゼエしました。尾根筋の直登コースには竪堀や土橋、馬蹄状の曲輪などもあり見逃せません。尾根を登りきるとこんどは帯曲輪状の道に出ます。ここも竪堀や土塁などがあります。再度のつづら折の急坂を登ると城内主要部の石垣が見えてきます。最初の大石垣(三ノ丸石垣)が見えてきたら登山道を逸れて右、東南側の道に回ってみましょう。見事な石垣が30mほど続いており、その更に先には大きな堀切があります。堀切の脇を登れば千畳敷の曲輪があります。そして本丸にも重厚な石垣が、そして絶景が待っています。この石垣群は非常に状態が良い上、なんとも心に響く美しい朽ち方をしていまして、「埋もれた古城」の風情に溢れています。これを見るだけでも、急峻な山道と50分間、闘う価値は充分にあります。非常に規模の大きい山城で、一応近世には山麓の出石城が築城されてこの有子山城は名目的には廃されたとはいえ、おそらく詰城として温存していたためか、破却が行われた形跡もなく、素晴らしい古城の風情が堪能できます。気合いを入れて、ぜひ山道を登ってみてください。そこには将右衛門が描いた彼の人生と、彼が晩年に心血を注いだ、美しい但馬の山河、そして美しい風情を湛えた壮大な古城の姿があるはずです。

観光客でにぎわう城下町・出石の背後にひっそり、かつ雄大に聳える古城の山。標高321m。ここを目当てに来る人はそうそういないでしょう。さあ、気合いを入れて登るぞ! 出石城稲荷曲輪わきの登山道は、尾根筋直登の地獄の坂。滑りやすい足もとと急坂にヘロヘロになったころ、写真の堀切と土橋が現れます。周囲には数条の竪堀、さらに少し上ると数段の馬蹄段が現れます。

帯曲輪を経由してふたたびつづら折の坂を登ると、苔生した石垣が現れます。

どうですか、この美しい朽ち方は。風雪をくぐり抜けた美しさが胸に染み渡る。これぞ古城。

三ノ丸石垣は非常に立派な高石垣。あまりに立派でここが本丸かと思ってしまうほど。

そのまま本丸には向かわずに、三ノ丸を東南側に迂回すると、30mほどに渡って古びた石垣が横たわる姿を見ることができます。もうこの頃には疲れもふっ飛んでます。

本丸〜三ノ丸の主要部と、千畳敷を断ち切る大堀切。石垣もいいけど、中世山城といえばやっぱりコレでしょうう。

千畳敷は「こんな山の上に」と驚くほど広い平坦地。建物の礎石の一部なのか、枡形の一部なのか、低い石垣によってわずかに段差がついています。

もう気絶しそうなほど美しい本丸の野面積み石垣。竹田城とはまた一味違った渋さを感じます。ほんと、来てヨカッタ!

石垣は破却や石材転用が行われなかったようで、少なくとも本丸に関しては完全な状態。折歪みも確認できます。

本丸虎口の石段。

千畳敷に次ぐ広さの本丸。低い武者走り状の土居や、天守台といわれるやや高い部分があります。

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但馬国府の出石の街と豊岡市方面。円山川が天然の堀となって流れています。山名氏の古城、此隅山城も見えています。将右衛門も見た景色。

山麓の解説板より縄張図。その規模の大きさがわかるでしょう。

ここでは主郭でふたり連れの地元ハイカーに出会い、入れたてコーヒーを頂きました。誰もいないと思っていた古城の山頂で、美しい景色と古色蒼然とした石垣を眺めながらコーヒーが飲めるなんて格別ですね。名前さえ知らないハイカーさん、ありがとうございました。そして帰り道、竹田城で出会った男性がゼイゼイしながら登ってくるのに出会い「お互い物好きですねえ!」。その帰り道では二人の男性に出会いましたが、両方とも第一声が「頂上はまだですか(ゼイゼイ)」。そのうち前述の男性には二合目付近で聞かれました(笑)。ちゃんと上まで登れたんでしょうか?

 

交通アクセス

播但自動車道「和田山」IC車30分

JR山陰本線「豊岡」駅よりバス

周辺地情報 せっかくだから山麓の出石城も見ていきましょう。あとは竹田城を忘れちゃいけない。
関連サイト  

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

 

 

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