小谷城めぐり

-その1-

祖父・亮政以来の旧い縁を持つ越前朝倉氏と

破竹の勢いで天下獲りの最前線をひた走る信長。

その狭間で苦悩する若き雄、浅井長政は

愛する妻、お市の兄である信長と闘う道を選び、

三年の後、その信長によって滅ぼされた。

天正元年八月二十九日、小谷城落城。

浅井備前守長政自刃。享年二十九歳。

標高395mの小谷城(手前)と背後の大嶽(おおずく)城(標高495.1m)。戦国期を代表する壮大な山城です。 小谷城と対峙する信長着陣の地、虎御前山。小谷城と指呼の間の距離にあるこの丘に着陣を許したことが小谷城の運命を決定付けました。
番所前を守る出城、金吾丸。大永五(1525)年の六角定頼の来襲に対して、援軍・越前朝倉氏の勇将として名を馳せた朝倉宗滴教景が着陣した。 番所前付近まで車で登れます。番所前の土塁には美しい紅葉が積もっていました。
主要部分の大手口にあたる番所。ここで城内の出入りを監視しました。落城の時、お市は三人の娘を連れてこの大手口から城を後にしました。 番所のさきの急坂を登ると御茶屋と呼ばれる曲輪に出ます。別に茶室があったわけではないでしょうが、何らかの建物があったのでしょうか。低い仕切り土居が残っていました。
さらに登ると柳馬場と馬洗池に出ます。厩があった場所ということです。曲輪は高い土塁に囲まれていますが、往時は石垣だったかもしれません。 石垣でかたどられた馬洗池。山城にとっては水は生命線、馬洗というよりも水の手の一つだったのではないでしょうか。
浅井氏三代の祖、亮政が天文二(1533)年、六角氏に内応した今井左衛門尉秀信の首を晒したという首据石。 首据石から大手道を東に外れると、重臣赤尾美作守清綱の屋敷跡。そう、長政自刃の地です。信長の再三に渡る投降勧告にも応じず、武人としての筋を通して死んでいった長政を偲んで合掌。
本丸大手門前の桜馬場からは伊吹山や琵琶湖、竹生島などが望める、はずでしたが、紅葉ともやに隠れて景色は見えず。かわりに美しい紅葉を堪能する。 桜馬場の一角に建つ浅井氏と将兵の慰霊塔。

本丸への虎口にあたる黒金門跡。石垣や石段がわずかに残ります。長政は最後までこの門から、群がる織田軍に討って出ます。が、衆寡敵せず、赤尾屋敷へ退去、木村太郎次郎の介錯で自刃します。享年29歳。 黒金門から千畳敷と鐘ヶ丸(本丸)を見る。ここが小谷城の中枢部。軍議を行ったであろう大広間などがあったのかもしれません。
紅葉に彩られた本丸千畳敷。春には桜の名所としても有名です。 本丸(鐘ヶ丸)の半ば崩れかかった石垣。古城の趣に溢れています。かつて三層の天守様の櫓があったらしく、それは彦根城の西ノ丸隅櫓として移築現存されているそうです。

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