荒川河口を任された色部氏一族の館

牛屋氏館

うしやしやかた Ushiya-Yakata

別名:

新潟県岩船郡神林村牛屋

 

城の種別 方形居館

築城時期

建永元(1206)年頃

築城者

牛屋氏

主要城主

牛屋氏

遺構

曲輪、土塁の一部

水田に浮かぶ牛屋氏館<<2003年05月03日>>

歴史 色部氏が色部条に入部した建永元(1206)年頃の色部為長譲状によると、嫡子公長に色部条と粟島を、次男資長に牛屋を譲る、とあり、また建治二(1276)年には城内の作道を境に、東を宿田氏、西を牛屋氏が相続した。色部氏の年中行事の様子を記録した「色部年中行事」には御親類衆として「牛屋右近丞殿」が見られる。天正十八年から十九年にかけての太閤検地では、牛屋氏は569石を所領とした。慶長三年、上杉景勝の会津移封に伴い色部氏も居を移したため、牛屋氏も同道して廃城となった。

牛屋氏は平林城主である色部氏の支族で、牛屋条を分与された比較的古い一族であるらしいです。牛屋氏についての動向は詳しくは存じないですが、色部氏の支配統率を記録した「色部年中行事」という良質の記録が残されており、その中に御親類衆として「牛屋右近丞殿」と「殿」つきで記載されているそうです。

番外編「えちご」の観測データ。荒川河口付近の低地から岩舟潟にかけて、広大な低湿地が広がる。その突端部分の牛屋集落は、河口の氾濫原と荒川本流の接点に位置する。(DAN杉本さん作成のフリーの山岳景観シミュレーションソフト「カシミール3D」と国土地理院発行の数値地図1/20万を使用)

牛屋氏館は50m四方ほどのごく小さい単郭方形の館で、おそらく拡張されて戦国期の平城に進化した、ということはなかったのではないかと思われます。一応荒川河口原に臨む位置にはありますが、河口を直接取り締まるには少々内陸に寄りすぎている気がしました。しかし、のちに中世観測衛星「えちご」で荒川河口付近の氾濫原を再現してみたところ、ちょうどこの牛屋あたりが氾濫原に突出した、陸と水との接点であることが分かりました。治水の進んでいない当時は河口の湿地帯も広大で、河道も定まっておらず、この牛屋氏館附近までが港湾の範囲だった、ということも考えられなくもない気はします。

場所は、牛屋集落から下牛屋集落へ向かう道沿いにあり、周囲を田んぼに囲まれた中、大きなケヤキが立っているのが目印です。小さな方形の館には、一部分土塁が残存しており、また館の北側には旧河道である、周囲よりも一段低い田がはっきりと見られます。この旧河道が荒川本流だったのかどうかは分かりませんが、氾濫原を防御の要としたのでしょう。しかし、館の規模の小ささ等を考えると、防御を重視した城館というよりは、荒川河口の監視、水揚げの指揮、徴税などを代行する、近世の代官所みたいな場所だったんじゃないか、そんな気がしました。

館の北側、旧河道の名残を残す田から見る牛屋館。今でも明らかに周囲よりも高い場所にあることが見てとれます。

館の内部は神社の境内地となっていますが、神社の名前・由来・縁起などはどこにも書かれていませんでした。

神社背後に残る土塁。高さ2mほどあります。神社建立のためのものではないと思います。 村指定の文化財、板碑。しかし時代や、なんて書いてあるかの解説は無し。自分で読めって?読めないでしょ、そりゃ。

 

交通アクセス

日本海東北道「中条」IC車20分。

JR羽越線「平林」駅 徒歩30分。

周辺地情報 本家、色部氏の平林城は素晴らしいです。ぜひ見学に行きましょう。近隣では村上城が素晴らしい。上関城も整った縄張りが面白いお城です。
関連サイト  

 

参考文献 「図説中世の越後」(大家健/野島出版)
参考サイト  

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