青鬼が住んだ古城

大天城

おおてんじょう Ooten-Jo

別名:

新潟県北蒲原郡加治川村箱岩

(大天城公園)

城の種別

平山城

築城時期

平安末期?

築城者

青鬼氏?

主要城主

青鬼氏

遺構

曲輪、堀切、枡形(?)

城址碑と解説板<<2001年08月14日>>

歴史

平安末期に加治郷を支配した青鬼堅人(あおきかんど)の居城と伝えられる。青鬼氏は温情ある支配により住民に慕われたとされる。黒鳥兵衛の部将であったとの説もあり、「鬼」の名で呼ばれ、姓は青鬼のほか、青木、大木、黄鬼、応宜など、名の方も堅人のほかに貫道、間道、角外、勘藤六などの当て字が伝えられている。

青鬼氏は諸将との軋轢攻防で敗死し、北方400mの青鬼崎に大石を墓標として埋葬された。青鬼崎には鎌倉期に高さ2mの三重の石塔が建てられており「鬼の墓」と呼ばれている。

この大天城に関しては、詳しいことは調査不足でわかりません。平安末期に青鬼堅人の居城だった、といわれているそうですが、この青鬼氏というのが何者なのか、また青鬼氏が仕えていたといわれる黒鳥兵衛というのが何者なのか、青鬼氏が「諸将との軋轢で敗死」というのもどういった理由で誰と争ったのかも、まったく分かりません。

ただ、地勢的な点では、かつてこの大天城の西に広大な塩津潟(紫雲寺潟)があったこと、加地荘と奥山荘の境目に近い場所であること、背後に櫛型山脈を控えていることから、塩津潟の東岸の水運・陸運を取り締まる位置にあったのではないか、と推測します。しかし、平安期から鎌倉期にかけての典型的な武士居館である方形館の体裁ではなく、舌状台地に複数の平場を配置した構えであることから、もしかしたら戦国期にも何らかの形で使われていた可能性もあるとも思えます。とくに越後の諸将が二分して戦った「御館の乱」や、その後の「新発田重家の乱」においても、近隣の諸将は直接干戈を交えており、この大天城付近も緊張状態にあったことが推測できます。その際に塩津潟の水運を掌握するための臨時の砦として用いられていたかもしれません。このあたりは全くの僕個人の推論です。どなたかご存知の方がいらっしゃったら、ぜひ情報をお寄せください。

前述のとおり、かつては塩津潟を俯瞰する半島状の舌状台地にあり、今の目で見れば要害には見えませんが、当時は周囲は湿地であり、それなりの防御力を持っていたのでしょう。詳しい縄張も不明ですが、公園として整備されている主郭比定の最頂部からは、加治郷が見渡せます。周囲には児童公園となっている平場やいくつかの平場があり、また主郭比定地の手前には大きな堀切だったであろう場所もあります(現在は橋が架かっている)。山腹の未整備の場所には枡形に見える場所もありました。そんなことからも、平安末期の武士居館だっただけでなく、戦国期の小城砦として取り立てられていた可能性もあると考えました。ただ、公園化にともなってある程度地形の改変もあったはずで、断言できるほど自信はありません。

公園として整備された大天城公園の入り口。城址公園というよりも、芝生広場や児童公園、テニスコートなどがある総合公園です。 大天城の全景。さして高い場所ではないですが、細長く突き出た舌状台地になっていて、周囲は急崖です。かつては周囲は塩津潟周辺の湿地帯だったことでしょう。
主郭と比定される場所の手前には橋の架かる大きな堀切跡と見られる場所があります。 ひょうたん型の主郭比定地。ここに城址碑や解説板があります。展望台からは加治郷(加治川村)が見渡せます。

北の山腹にあった枡形らしき地形。真偽の程はわかりませんが、堀跡らしきものや土塁跡らしきものがあります。 頭上から目の前に落ちてきた現在の城主。「鬼」から「蛇」に生まれ変わっていました(^^;)。ヨカッタ、頭の上に落ちてこなくて。お邪魔してスミマセンでした。

 

 

交通アクセス

北陸自動車道「新潟空港」ICより車50分。

JR羽越線「加治」駅より徒歩20分。

周辺地情報

ちかくに「古城山」と呼ばれる山がありますが未調査。加治川村には「金山城」という素晴らしい城跡があります。隣町の中条町の「奥山荘歴史の広場(江上館)」も要チェック。

関連サイト

加治川村

 
参考文献 現地解説板
参考サイト  

 

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