この大天城に関しては、詳しいことは調査不足でわかりません。平安末期に青鬼堅人の居城だった、といわれているそうですが、この青鬼氏というのが何者なのか、また青鬼氏が仕えていたといわれる黒鳥兵衛というのが何者なのか、青鬼氏が「諸将との軋轢で敗死」というのもどういった理由で誰と争ったのかも、まったく分かりません。
ただ、地勢的な点では、かつてこの大天城の西に広大な塩津潟(紫雲寺潟)があったこと、加地荘と奥山荘の境目に近い場所であること、背後に櫛型山脈を控えていることから、塩津潟の東岸の水運・陸運を取り締まる位置にあったのではないか、と推測します。しかし、平安期から鎌倉期にかけての典型的な武士居館である方形館の体裁ではなく、舌状台地に複数の平場を配置した構えであることから、もしかしたら戦国期にも何らかの形で使われていた可能性もあるとも思えます。とくに越後の諸将が二分して戦った「御館の乱」や、その後の「新発田重家の乱」においても、近隣の諸将は直接干戈を交えており、この大天城付近も緊張状態にあったことが推測できます。その際に塩津潟の水運を掌握するための臨時の砦として用いられていたかもしれません。このあたりは全くの僕個人の推論です。どなたかご存知の方がいらっしゃったら、ぜひ情報をお寄せください。
前述のとおり、かつては塩津潟を俯瞰する半島状の舌状台地にあり、今の目で見れば要害には見えませんが、当時は周囲は湿地であり、それなりの防御力を持っていたのでしょう。詳しい縄張も不明ですが、公園として整備されている主郭比定の最頂部からは、加治郷が見渡せます。周囲には児童公園となっている平場やいくつかの平場があり、また主郭比定地の手前には大きな堀切だったであろう場所もあります(現在は橋が架かっている)。山腹の未整備の場所には枡形に見える場所もありました。そんなことからも、平安末期の武士居館だっただけでなく、戦国期の小城砦として取り立てられていた可能性もあると考えました。ただ、公園化にともなってある程度地形の改変もあったはずで、断言できるほど自信はありません。