潟とともに消滅した

長場館

ながばだて Nagaba-Date

別名:

新潟県豊栄市長場

 

城の種別 平城

築城時期

不明

築城者

飯野氏あるいは長尾氏(?)

主要城主

飯野氏あるいは長尾氏(?)

遺構

なし

「城の潟伝説地」<<2004年08月13日>>

歴史

城歴については定かではないが、飯野氏、あるいは上杉氏の家臣である長尾三郎右衛門から小四郎景行に至る四代が居住したという。永正年間(1504-21)に長尾為景によって滅ぼされたと伝承されている。

越後低地の広大な田んぼの中に、かつて「城の潟」と呼ばれた潟がありました。今では耕地整理によってまったくその痕跡を留めませんが、場所的にはおそらく福島潟から阿賀野川河口域にかけての広大な湿地帯の一部であったようです。長場館はそのほとりの微高地、自然堤防上にあった低地性の平城(館)だったといいます。耕地整理前は駒林川を外堀に、楕円形の内堀を施していたといい、その堀は三十間(55m)もあったといいます。また「城の腰」「外城」「内城」などの地名も残るといいます。堀の幅55mということは、人工のものではなく、おそらく旧河道の湿地などを用いたものでしょう。池ノ端城などと同じような城館だったのではないかと思います。

城主については明確な記録はありませんが、「長尾為景に滅ぼされた」という伝承があるそうです。この下克上一代男は守護・上杉房能とその兄で関東管領の上杉顕定の両方を葬っており、また自らが擁立した上杉定実らとも長年にわたって抗争、越後の国人衆はその都度、守護方についたり為景方についたり、と右往左往を余儀なくされます。長場館のあるじもきっとそうした混乱の中で、歴史の中に埋没してしまったのでしょう。エネルギッシュな為景の戦歴を物語る場所でもあります。また、平和なときは平和なときで、河川の氾濫や開墾などで苦労していたのでしょう。この広い低地で水と格闘した領主の苦労も偲ばれるようであります。

長場館はいまや全くその痕跡を残しませんが、だだっ広い田んぼに「城の潟伝説地」の解説板がポツンと建っているので、ある意味目立ちますからすぐ場所はわかります。もっとも、縄張りなどを想像させるものは何もありません。個人的にはこんな場所でも、為景の足跡のひとつ、と思えば来てよかったなあ、と思っています。なにより、見渡す限りの田んぼ、というのはそれはそれで気持ちのいいものですよ。

[2004.08.29]

見渡す限りの田んぼに建つ「城の潟伝説地」の看板。もはや何も痕跡はありませんが、「伝説地」というのがちょっと神秘的というか、幻想的で魅かれるものがあります。

その看板によると、長場館は東西300m、南北150mもあったのだとか。うーん、見てみたかったなあ。

 

交通アクセス

日本海東北道「豊栄新潟東港」IC車20分。磐越自動車道「新津」IC車25分。

JR白新線「豊栄」駅徒歩40分(公共交通不明)。

周辺地情報 近くに見ごたえのある城館がありません。ちょっと足を伸ばして新発田城へどうぞ。豪農屋敷の「市島邸」「伊藤邸(北方文化博物館)」なんていうのも悪くありません。
関連サイト  

 

参考文献 「図説新発田・村上の歴史」
参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ