越後低地の広大な田んぼの中に、かつて「城の潟」と呼ばれた潟がありました。今では耕地整理によってまったくその痕跡を留めませんが、場所的にはおそらく福島潟から阿賀野川河口域にかけての広大な湿地帯の一部であったようです。長場館はそのほとりの微高地、自然堤防上にあった低地性の平城(館)だったといいます。耕地整理前は駒林川を外堀に、楕円形の内堀を施していたといい、その堀は三十間(55m)もあったといいます。また「城の腰」「外城」「内城」などの地名も残るといいます。堀の幅55mということは、人工のものではなく、おそらく旧河道の湿地などを用いたものでしょう。池ノ端城などと同じような城館だったのではないかと思います。
城主については明確な記録はありませんが、「長尾為景に滅ぼされた」という伝承があるそうです。この下克上一代男は守護・上杉房能とその兄で関東管領の上杉顕定の両方を葬っており、また自らが擁立した上杉定実らとも長年にわたって抗争、越後の国人衆はその都度、守護方についたり為景方についたり、と右往左往を余儀なくされます。長場館のあるじもきっとそうした混乱の中で、歴史の中に埋没してしまったのでしょう。エネルギッシュな為景の戦歴を物語る場所でもあります。また、平和なときは平和なときで、河川の氾濫や開墾などで苦労していたのでしょう。この広い低地で水と格闘した領主の苦労も偲ばれるようであります。
長場館はいまや全くその痕跡を残しませんが、だだっ広い田んぼに「城の潟伝説地」の解説板がポツンと建っているので、ある意味目立ちますからすぐ場所はわかります。もっとも、縄張りなどを想像させるものは何もありません。個人的にはこんな場所でも、為景の足跡のひとつ、と思えば来てよかったなあ、と思っています。なにより、見渡す限りの田んぼ、というのはそれはそれで気持ちのいいものですよ。
[2004.08.29]