攻城雑記その22 |
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7.13新潟県中部水害について |
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2004.07.31 |
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【7.13新潟県中部水害】 平成十六(2004)年七月十三日、活発化した梅雨前線は新潟県中部地方(中越地方)に激しい雨をもたらした。十二日21:00からの23時間の降雨量は栃尾市420ミリ、加茂市297ミリ、長岡市231ミリ、三条市208ミリなど、場所によっては年間降雨量のほぼ四分の一がたった一晩で降り注いだ。典型的な集中豪雨である。この豪雨で三条市や見附市、中之島町では五十嵐川、刈谷田川などの信濃川右岸の支流が増水、遂に堤防が決壊し、広範な範囲に甚大な被害をもたらした。新潟県の災害対策本部によれば、死者15名、家屋全半壊89棟、床上浸水7259棟、床下浸水6、038棟という。一時は二万人が避難を余儀なくされ、今(7/31現在)なお三条市だけで400名を越える住民が避難生活を送っている。
被害を大きくしたのはなんといっても河川の堤防が決壊・破堤したことである。濁流は住宅地や市街地を呑み込んだ、いや、河川が突然向きを変えて、宅地の間を通り抜けた、という方がより真相に近いかもしれない。冷蔵庫や自動車が流されるさまをテレビで見た方も多いだろう。もともと三条市附近は信濃川沿岸の低地が続く場所であり、五十嵐川などは暴れ川として恐れられてきた。そのため、高く堅固な堤防が築かれてきたのであるが、自然の猛威はその堅固な堤防をいとも簡単に突き崩してしまった。悪いことに、五十嵐川の破堤箇所である諏訪新田地区などは川が曲流するカーブの内側で破堤が起きてしまった。関係者にとっても予想外の場所である。なお悪いことに、この濁流は三条市の本成寺地区や島田地区などの、五十嵐川旧河道の低地帯に流れ込んだ。こうしてあっという間に広大な範囲が水没してしまった。 行政の対応をめぐっては、「避難勧告が遅すぎる」あるいは「避難勧告が行き渡っていなかった」という声もある。しかし、短時間で河川の水位が上がったこと、「破堤」という、予測の難しい災害であったこと、しかも破堤箇所が曲流部の内側という、多少予想に反する箇所であったことを考えれば、避難勧告を出すタイミングは非常に難しかっただろうと、多少同情的に思わなくもない。ただ、行政側は万一破堤した場合のハザードマップのようなものを用意していたのか、いざという時の危機管理体制は整っていたのか、とくに高齢者世帯に対する警戒は十分であったのかどうか、今後しっかり検証してほしいところではある。 【復旧作業とボランティア】 今回の災害では、三条市、見附市などでは被害状況や避難地区、ボランティア受け入れなどについてかなりの量の情報をインターネット上に置いており、比較的情報量は不足なかったと思う。中之島町については役場の水没という事態をうけて、町のホームページも停止し、緊急で近隣NPOのサイトで情報提供を行っていた。これは止むを得ないことだろう。これらの行政側の情報提供によって多くの支援、ボランティアが結集した、という側面は評価されてよいと思う。 さて、被災から約10日が経過した七月二十四日、遅ればせながらソレガシも三条市のボランティアセンターに向かった。実は、ソレガシの生まれ故郷は、昭和四十二年の「羽越大水害」で壊滅的被害を受けている。我が故郷でも三十名を越える人名が失われ、交通も寸断された。ソレガシが生まれる、一年前のことである。そのとき、県内外から多くの援助を受けて、我が故郷は再生したのである。もちろん、三条や中之島の人たちからも多大な援助を頂いたであろう。だから、この災害は他人事ではないのである。 朝、三条市郊外のインターを降りると、すでに復旧関係者やボランティアの車で渋滞がはじまっていた。道路はソレガシが走ったところはとくに通行止め等はなかったが、道端には延々とゴミの山連なり、多くの家庭で泥出しや家財用具の水洗いを行っていた。この道すがらでも、すでにボランティアが続々と押し寄せてくる姿に驚いた。 ボランティアセンターの受付に行ってみると、そこは人で埋め尽くされていた。服装も装備もまちまち、でもとりあえず何かをやりたい、という意思を持つ人々が、自然発生的にこれだけ集まるということ、これだけのボランティア文化が人々の中に根付いているということに、深く感動した。 この日、ソレガシは8名の班の一員として島田地区に派遣され、家屋の泥出しなどをやったのであるが、一見泥はかなり少ないように見えたのだが、床下から出しても出しても出てくるのである。とても老夫婦ふたりの家庭でどうにかできることではない。幸い、ソレガシの班には高校生のグループをはじめとした力丈夫な人間が集まっていたので、予定の一軒のほかにもう一軒、片付けてくることが出来た。この高校生たちも、近隣の市町村に住む友人同士で誘い合って来たのだそうである。「今どきの若者は」などと言われることも多いし、自分も言ったことがあるクチではあるが、こうした自発性溢れる若者がいてくれる、ということは大いに頼もしいことである。
また、住民の復旧への熱意と、それを援けるボランティアの力で、住宅地などにおける泥出し・清掃・消毒などの作業も進むであろう。医療やメンタルケアなどの分野でも専門の能力を持つ人たちによって活動がはじまっている。 今後、もっとも難しい局面が来るのは、こうした表面に顕れやすい被害がある程度復旧した後ではないかと考える。災害復旧の山場を越えると、あまり報道に取り上げられる機会もなくなり、被災地以外の地区の関心は急速に薄れてしまう。反面、被災地においては浸水した住宅の修繕、家財用具の買い替え、農地の復旧など、個人に重く負担がのしかかる課題が山積する。なかには住宅が全壊するなどの状況で、仮設住宅に移り住むことを余儀なくされる家庭も出ている。さらに難しいのが、こうした被災家庭の多くが高齢化世帯であったり、収入の元となる職場や農地も甚大な被害を受けていて経済的な支え、精神的な支えが非常に心細いことである。零細企業などでは、事業の継続が危ぶまれるところも出てきている。 こうした個別の家庭における災害に対する保障というのは原則的に個人負担である。しかし、多くの場合その負担はあまりにも重く、個人だけでは賄いきれない。かといってこの分野ではさすがにボランティアもなかなか有効な手助けは難しい。義援金という間接的な方法もあるにはあるが、集まる額や各家庭に割り振られる額はこれらの被災者の生活を完全に支えるものにはなり得ないだろう。 かといって、別に特別な能力が要求されるわけではない。「関心はあるけれど、自分になにができるか不安で・・・」という方も、一度参加してみるとよい。こうした災害復旧のボランティアは力仕事が多いのは事実だが、それ以外にもたくさんの仕事があるものである。臆せず飛び込んでみよう。 こうした災害ボランティアに参加される際に、多少ナリとも参考となるよう、気づいた点を簡単に述べておく。 ちなみに、今回の災害では中之島町のボランティア受付は終了している。三条市のボランティアも、一般のボランティア活動は8月1日で終了する。
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