越後最北の村、朝日村のはるか山奥、村上市街地から車で一時間半ほどもかかる林道の奥の奥に、この神秘と謎に包まれた金山遺跡があります。現在は夏季しか通行できない「朝日スーパー林道」が傍を通り、金山自体も「ゴールドパーク鳴海」として整備されてはいますが、途中悪路も混じえ片道30kmほども山間を走らなくてはならないため、簡単に行ける所ではありません。
よくもまあこんな山の中で金山を発見したものだ、と感心してしまいます。伝承では、出羽の住人・相之俣弥三郎が日本海を舟で渡っているときに、西日を浴びた山が燦然と輝く姿を見て岸に舟をつけ、川の流れの中で砂金をたどって行くうちに三日目にようやく輝くばかりの黄金の山を掘り当てた云々。しかし、わずか三日ばかりで発見できるような山の中ではなく、もとよりこの話の信憑性を論じても是非も無いお話でしょう。
むしろここでは、いくさに明け暮れた越後軍の軍用金の源としての位置づけに注目してみようと思います。いくさには膨大な経費がかかります。越後軍の経済力を支えていたのは「青苧(あおそ)」の交易や米、その代金と交換した「かい金(購入した金)」や貸付金利息などだった、とのことですが、商品経済が未発達な戦国時代に、青苧交易だけで支えうる経済力には限界があるでしょうし、当時の越後は氾濫原や湖沼が多く、今のような「米どころ」でもありませんでした。上杉氏が佐渡を完全掌握するのは天正末期ですし、そもそもその佐渡金山も大規模な開発は近世の徳川幕府による採掘がはじまってからのことです。こうしてみると、鳴海金山の持つ位置づけがわかって来ます。ここは越後軍の軍資金を支える、重要な「宝の山」だったのです。
慶長三年の記録によれば、上杉景勝が秀吉に運上した金は全国の六割、その半分をこの鳴海金山が支えていたということになり、全国の三割もの産出量を誇っていたということになります。それはおそらく十六世紀末の当時、「世界一」を意味するものであったでしょう。鳴海金山は羽越国境に近い深い山の中であり、周囲には本庄氏や色部氏をはじめとした、「揚北衆」と呼ばれる独立性の高い国人領主層がいたりして、金山経営には多くの苦労を伴ったでしょうが、おそらく謙信の時代から、軍資金としての金山開発は盛んに行われていたのではないか、と想像します。
現地の解説によると、天正大判一枚、現在の価値で四百万円相当、当時の価値で米百俵分に相当する中に含まれる金は122グラム。これだけの金を掘るには一日あたり1,120人もの労働者と、24.4トンもの鉱滓(カス)が必要だとか・・・これを二千枚以上も秀吉に献上するとは!その想像を絶する労苦に言葉を失います。
現在の「ゴールドパーク鳴海」ですが、入坑可能なのは「6〜11月の土・日曜日と祝日、9:00〜16:00」、入山料は600円です。とんでもない山の中にあり、車なしでは到達不能です(ちなみに携帯も届かない)。いったい当時の人はどうやって金を運んだのか?不思議でなりません。一般の観光客向けに整備されていますが、ところどころに「タヌキ掘り」という手掘りの坑道がぽっかりと不気味な口を開けています。別に200円で砂金採りの体験などもできます。ただ、観光地というには程遠い環境にあるので覚悟して来てください。
見学当日は、やーたろー殿のお供にて出発、しかし、山道を行けども行けども着かず、やっとたどり着いたと思ったらなんと公開日ではなかった!(しかも有料だって知らなかったぞ)。かといってわざわざこんな山の中まで来て黙って帰るわけにも行かない。しょうがないので坑道の入り口付近を見て回りました。この狭い坑道で何千人も働いて(働かされて)いたとは。。。なお金山の全貌は未だ明らかではないそうです。どこに坑道があるかわかりませんので、見学路以外の藪コギは危険ですからやめておいたほうがいいでしょう。ソレガシは当時の人々の飯場や代官所跡などの場所が知りたかったな。