守谷城は千葉氏の一族たる下総相馬氏の本拠地であり、かつまた平将門が坂東独立王国の王城として建設した、という伝説の地でもあります。将門の偽宮伝説はほかにも岩井、取手などにもあり、どれが本当なのかはわかりません。一応現存遺構から判断すれば、戦国期の城郭である、としか言えません。ただ、守谷城は将門の偽宮伝説が長らく信じられてきた場所でもあり、そう信じたい気もしますが、実際にはおそらく、相馬氏が自らの出自にハクをつけるために潤色したものであるのかも知れません。
中世の住人であった相馬氏は奥州に移住し、父祖伝来の地を嗣いだ下総相馬氏はやがて関宿城の簗田氏配下の与力として「古河衆」に組み込まれていきます。千葉六党出身ではあるもののその地理的な関係からか、むしろ簗田氏や古河公方との接点の方が大きかったみたいです。しかし所詮は在地の小豪族、やがて来たる北条VS謙信の時代には難しい舵取りを迫られ、永禄四(1561)年の謙信の小田原城攻撃、永禄九(1566)年の謙信の臼井城攻めなどに従軍しています。その相馬氏に危機が訪れたのが第一次関宿合戦直後。北条氏と関宿城主の簗田氏との和睦条件の一つとして、簗田氏が守谷城と守谷領併呑を望んでいて、北条もそれを認める意向である、とのこと。相馬氏にしてみればたまったものではないですが、いろいろな政治的駆け引きもあって、古河公方足利義氏が鎌倉から古河城に帰還するまでの一時期、御所として利用されることとなり、実際に北条配下の兵卒が守谷城の受け取りに入城しています。相馬氏にとっては一見とばっちり的な条件でも、うまくやれば古河公方側近として立身できるかもしれない、そんな打算もあったのでしょう。結局この守谷城接収・公方移座計画は北条氏と簗田氏の決裂によって実現せず、相馬氏にとっては危機も飛躍のチャンスも逃げていったわけです。
ところでこの守谷城、文化14年(1817)に成立した、武蔵国在住の高田與清の紀行記『相馬日記』の中で「平将門舊(旧)址」のとして登場します。
「村長の斎藤徳左衛門を訪ひしに、主人喜びて、俳諧師鳥酔がこの里に遊びし時記しし記とう出て見せたり」
わざわざ訪ねてきた高田與清を歓迎して、「さ、さ、上がってまず一杯やってくれ」みたいな会話があったんでしょう、家伝の宝物、鳥酔の書き記した文などを見せて得意になる長老の斎藤徳左衛門なる人のよさそうなおっちゃん。今でもいますよね、お城のことを聞いたりすると大喜びでいろいろ教えてくれるおじいちゃん。そんな感じの人物だったんでしょうねぇ。
「さて徳左衛門文伯道導べして、相馬の偽都の舊址尋て分入るに、先相馬小次郎師胤が城の跡ありて、今に乾壕枡形などの形昔のままに残れり」
今で言う「オフ会」ですな。徳左衛門のおっちゃん、一杯やって上機嫌でお城の案内を受けて立ったんでしょうな。「分け入る」という表現がいかにも藪に突入!という感じでイイですね。江戸時代中期にも藪コギしてお城でオフやってた連中がいるとは。そして藪に突入したら空堀やら桝形やらが昔のままに残っている、「お〜っ!これはスゴイ!」みたいな感嘆の声もあったでしょう。ものすごくリアリティのあるお話ですね。
「畠の中道を東へ廿町余り行けば、大壕曳橋などいふ処あり。平ノ台といふは最高き岡にて、ここぞ将門が住みし所なる。又めくるめく計りの深き塹を渡りて八幡廓に移る・・・」
畑の中をトコトコ歩いて、主郭にたどり着き、「ここに将門がいたんだぁ!」と感慨にふける高田與清、しかも空堀が「めくるめく深さ」というのはこのお城の遺構を思うとまったく頷けるところです。この日記は「利根川図志」にも引用されており、この他にも関宿城や栗橋城など、お城に関する考察も実に面白いものがあります。それにしても、いつの時代も、似たような人間がいるものです。
現状の守谷城の遺構は、台地先端部の戦国期の遺構群と、台地基部の近世に拡張された部分に大きく分かれます。将門の旧跡云々というのはまったくわかりませんが、一応守谷小学校の片隅に「平将門城址」の石碑がポツンと建っています。この守谷小学校を含む、近世守谷城はほとんどが宅地や小学校となっていて、確認できる遺構はごくわずかですが、半島台地先端に位置する戦国期の遺構は実によく残っていて、赤松翁ではないですが、めくるめくばかりの空堀、はっきり残る枡形に「ほほーっ」と唸ってしまいます。この大規模な遺構群はおそらく、幻の古河公方移座計画の際に改修された部分でもあるのでしょう。周囲の湿地はほとんどが干上がり、わずかに残った守谷沼の他は公園かなにかでも作るのでしょうか、さかんに水田を埋めてなにやら工事をやっていました。現状の守谷城は城址公園となっておりますが、派手な改変は無く実にいい感じ、おそらく赤松翁がオフ会をやっていた当時ともそれほど大きく変わらないのではないかと思います。願わくばあまり手を入れずに、このままの状態で残していってもらいたいものです。