平林城1(居館部)

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山城、といえば「要害」。そんな風に思っていませんか?

いや、実は山城には「居館(根小屋・根古屋)」がつきものなのですよ。きちんと居館まで残っている山城は少ないのですが、ここ平林城の素晴らしさはなんと言ってもこの居館。ここを見れば、きっとあなたも根古屋マニアになるでしょう(?)。とはいっても、この平林城の根古屋は、単なる居館などというレベルのものではなく、これ自体、単独でも立派に防御力を持つ、れっきとした城、「館城」です。この地方の山城の居館部は、異常に発達した館城タイプが多いのですが、その堅固さ、遺構の残存度のよさから言っても、平林城は群を抜いています。ウソだと思ったら、来てみらっしぇ〜。

平林城居館部平面図(左)、加護山要害平面図(右)

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荒川南岸から見た平林城。中央やや右の最高峰が要害詰め曲輪(本丸)で、左の鋭く突き出ているところが狼煙台と呼ばれるところです。居館部はこの写真の左下、北西方面にありました。 居館部に近づいて真っ先に目に入るのが、「屋敷三ノ丸」(岩館)と呼ばれる場所の土塁壁。高さはおよそ5mほどあります。北側と南側にそれぞれ虎口があります。

城址入り口の標柱。この向こうに国指定史跡の名に恥じない素晴らしい遺構が眠っています。 屋敷三ノ丸南側に残る水堀(堀4)、あるいは泥田堀跡。水堀の痕跡は、屋敷三ノ丸の西面、北面にもあります。

水堀4の上流を堰き止める館の内堤。中世期のものかどうかは不明ですが、「吉書」にも「堤を固く築く」という文言があることだし、灌漑用水の用水権を握っていたかも・・・。 屋敷三ノ丸(岩館:V)の土塁。高さは1m程度しかありません。曲輪内部にも仕切り土塁のようなものがあります。

屋敷三ノ丸南虎口。三の丸から南に出て、西に折れ曲がり、西側に向けて二重の土塁の間を抜けて外に出ます。 屋敷三ノ丸の北虎口は複雑な構造の内枡形虎口です。現在ここは、再開された発掘作業の真っ最中です。
発掘作業が途中で中断されていた屋敷三ノ丸。最近再開されたらしく、あちこちで真新しいビニールシートが被せられていました。 居館地区北側は自然の川が堀となっています。大手虎口はこの川に架かった木橋(または曳き橋)を渡り、屋敷三の丸と二の丸を隔てる堀前に繋がっていた、とされています。

その大手虎口。内枡形に屈曲しています。屋敷の曲輪群より一段低くなっており、堀底状になっています。下から見ると3m近い土塁・城壁に囲まれており、なかなか圧迫感があります。 その大手虎口から上ったところにある堀と土塁。平林城址中、もっとも見ごたえのある部分です。堀は屋敷二の丸と三の丸を分断しており、幅は約5m、土塁の高さは3−5mあります。

その土塁上から見た堀。堀の折れがきれいに残っているのがわかりますね。ただし通常の縄張りと比べて土塁と堀が逆です。もともとV曲輪のみであった居館を山側に拡張した結果なのでしょう。 滝矢川に面した塁壁の横矢。この方面は崩落もあり、この横矢に見える構造がそうだとは断言できませんが、館城として防御力を強化された遺構であるとも見ることが出来ます。

殿屋敷(屋敷本丸)虎口の土塁上から見た虎口と箱堀(殿堀、堀2)。土塁は高さ2mほどで、折れはありません。また、屋敷二の丸・三の丸の虎口が非常に複雑であるのに対し、ここは意外なほどあっさりした平入り虎口になっています。 案内板によれば殿堀は箱型の堀で、現在はほとんど埋まっていますが、深さ9.5m(!)、幅7mもあったとありますが、垂直の堀で「深さ9.5m」は当時の土木技術では不可能でしょう。それよりも、湧水を引き込んだ泥田堀であったのでは、と思います。
堀2の先端附近は今でも現役の泥田堀。 殿屋敷の山寄りの土塁と堀1。一部欠損していますが、そんなことを感じさせない素晴らしさ。溜息が出る・・・。
ここが館城としての平林城の本丸にあたる「殿屋敷」。内部は発掘作業が行われていました。 屋敷二ノ丸背後の土塁。要害へは屋敷二ノ丸経由で到達しますが、山側にこんなに厳重な土塁があるのは珍しい気はします。
屋敷二ノ丸(U)背後の土塁の折れ。この部分は本来の加護山要害への通路だったのではないかと思われます。 こちらは加護山要害への現在の登り口。本丸ではなく二ノ丸から道が伸びるというのもちょっと疑問ではありますが・・・。

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