高校の頃、電車で通り過ぎた「平林駅」の東側に、その城跡はありました。謙信に興味を持ってはじめて、平林城と色部氏のことを知りました。見学する前は全く期待しておらず、村上城の雪景色を見学したついでに立ち寄ってみたのですが、遠目にもはっきりわかる居館部の土塁壁を見つけた瞬間に、期待していなかった自分を反省。積雪のため、居館部の一部だけを見学しただけでも、その遺構の素晴らしさに興奮してしまいました。近所のオバチャンに要害部に行けるかどうか聞いたところ、「夏なら1時間もあれば行けるが、冬ではどうかなあ」という答えで一旦見学を諦め、また雪解けの時期に来ることに。
こうして春に再度見学、それ以来何度か訪れていますが、何度行っても飽きが来ない素晴らしい遺構が残ります。標高283mの要害山(古名・加護山)の要害は他の有力揚北衆の居城と比べても規模は小さく、遺構も古臭い感じがします。ただ、この山の上からの景色は実に素晴らしく、日本海に沈む夕陽の姿などは言葉に表わせぬほどの絶景でした。まあ、下山時に暗くなってしまうのでオススメはいたしかねますが・・・・。
平林城の真髄はむしろ山麓の居館にあります。これはもう「居館」などと呼ぶのが申し訳ないほど立派なもので、3つの主要な曲輪を持ち、大規模な堀・土塁を備えた「城」そのものです。色部氏は平林城の整備・拡張については山の上の要害を捨て、この居館を要塞化することの方を重視していたようです。現在は国指定史跡になっており、発掘作業が断続的に続けられているようですが、いつ頃まで続くのか、報告書等が出るのかどうか等はわかりません。個人的には色部氏の生活を伺わせる遺物や遺構が出ることを期待しています。
|
平林城居館部平面図(左)、加護山要害平面図(右)
※クリックすると拡大します |
色部氏は小泉庄加納・色部条に入部した秩父平氏の流れを汲み、本庄城主の本庄氏とは同族にあたります。当初の居館がどこにあったのかは不明ですが、南北朝期に在地領主の平林氏を滅ぼして平林城を居城にした、とされています。この辺の経緯はよくわかりません。
天文年間には上杉定実の養子問題が発端で小泉庄のほぼ全域が隣国出羽から攻め寄せた伊達氏に占領されるという危機も経験しています。このときは伊達氏の家中に内乱(伊達天文の内乱)が勃発したため平林城は辛うじて落城に到らずに済んでいます。
色部氏は戦国末期には「揚北衆」筆頭の実力を持つ国人領主となり、色部勝長はあの「第四回川中島合戦」で謙信から感状を受けた猛者でした。この感状は現存し、「血染めの感状」として有名です。しかし、同族の本庄繁長が武田信玄の調略に乗り、本庄城で謙信に叛くと、本庄城攻囲軍に加わりますが、本庄繁長の夜襲によって戦死してしまいます。勝長の武勇を思うと非常に残念でならない気がします。我が黒川城主、黒川清実の妻は色部勝長の妹でした。
また色部氏には、戦国期の色部氏の家中行事、祝事などの細目を書き記した「色部氏年中行事」という史料があり、有力国人領主の支配形態や生活を知る上で格好の資料として知られています。とくに正月行事に関しては質素な中にも厳かで神聖な雰囲気が感じられて鳥肌モノです。よろしければ「色部氏年中行事」の記事などもご覧いただきつつ、色部氏の素晴らしい居城を訪ねてみてはいかがでしょうか。
[2007.01.14]