<<「廃城奇譚」飛騨の旅:四日目>>
(番外編 雨の美濃路)
2005.11.06(日) 曇りのち雨
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「道の駅 古今伝授の里やまと」で凍えるような一夜を過ごし、最終日は一人で気ままなお城めぐり。しかし天候は下り坂。一日持つかなあ・・・。
以下、岐阜県。 |
見学先 |
阿千葉城、郡上八幡城、大桑城、黒野城、鷺山城、春王・安王の墓、赤坂茶屋御殿、大垣城 |
メンバー |
単独
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朝 |
この時期の車中泊は自殺行為だということを身に染みて体感してしまい、寝不足のまま行動開始。とにかく体が冷えて冷えて仕方ないので、「どこでもいいから歩いて体を温めねば」という感じ。今日は天候は下り坂のようである。 |
07:00
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■阿千葉城(郡上市)
篠脇城を築いた東氏の最初のお城だという。本丸までは比高70mほど、5分ちょっとで到達。本丸周辺は綺麗に整備され、石垣らしきものもあるが、改変もされているように見えて、どんなお城なのかイマイチよくわからない。背後の堀切も思ったより小さい。基本はやはり古いお城なんだろう。少々疲れもあり、ここではヤブ突入は諦めた。まあ実地に来て、東氏の足跡に触れただけで十分満足である。
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美濃東氏の第一歩の地がここ! |
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08:30
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■郡上八幡城(郡上市)
水のまちとしても知られる郡上八幡、実際に街に入ってみると、街道沿いに発展した近世城下町、宿場町の雰囲気を非常によく残している。時間さえあれば街の隅々も散策してみたいところである。郡上八幡城は写真でよく大垣城を模した天守が紹介されているが、山麓から見上げて、やっとどんな立地の城なのかがわかった。模擬天守はまだ開館していなかったので、周囲の尾根の散策路を歩いてみると、大きな堀切があるのを見つけた。天守の周辺の石垣は一部新しい石材で積みなおされているようだが、苔むした古い石垣は実にいい感じである。模擬天守も大垣城が戦災で失われてしまった今となっては貴重かもしれない。昭和8年建立の木造模擬天守、現存する最古の模擬天守(妙な響きだ)である。天守内を歩くと昔の小学校の校舎のようなギシギシ音がするのがたまらん。城の周囲には「千代様は郡上八幡の出身!」という幟が林立している。あの山内一豊の妻、千代ちゃんの出身地には諸説あるが、郡上八幡説が有力なのだという。街を上げてこの説を支持しているのがヒシヒシと伝わってくる。
この郡上八幡周囲には東氏関連の山城がたくさんあるようであるが、さすがにそこまで余裕は無いので、こちらはまたいつの日にかの楽しみに取っておくこととする。ところで、この街から国道に出るのに道路工事などによる通行止めで随分苦労した。迂回路はわかりやすくキチンと表示して欲しいものである。
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おなじみ、山内一豊と千代ちゃんの像が。 |
山頂の模擬天守。模擬とはいえ結構サマになっている。 |
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10:20 |
■大桑城(山県市)
美濃守護・土岐氏の詰城ともいうべき山城だが、あいにく雨が降り始めた。それでも小降りだったので山麓の登り口まで入ってみたのだが、雨が強くなってきたことや、何より山林の中が真っ暗で写真が撮れないことなどもあり、撤退することとした。残念。しかし、城下の谷戸を横断する「四国堀」はしっかり見てきた。かっこよく言えば「惣構え」のようなものである。これはなかなかすごい。ホントにあるんだなあ、という感じだった。この大桑城、山の高さといい、奥まった立地といい、谷戸状の城下集落といい、今川氏における花倉城と雰囲気が似ている気がする。名門守護家の詰城って何か共通する匂いのようなものがあるのだろうか。
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これが四国堀か!素晴らしい! |
あの奥の山が目的地だったが無情の雨が・・・。 |
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11:30 |
■黒野城(岐阜市)
雨が結構本降りになってきたので、雨天オプションを発動、山城を棄てて平城&史跡散策に切り替える。黒野城は昭文社の地図にもはっきり方形の水堀が描かれていて期待が持てる。実際に行ってみると、ゴチャゴチャした住宅密集地で、「ホントにこんな場所に城などあるんかいな?」と不安になったが、小路を抜けると目の前に驚愕の重厚土塁と水堀が残っていた。こりゃすごい!内部は公園になっているようだ。黒野城のことは全く知らずに来たのだが、ここは賤ヶ岳七本槍のひとり、加藤光泰の居城だったという。現在残っているのは本丸だけだが、おそらく外郭もそれなりに規模があったのだろう。北関東の平城を思わせる重厚な土塁は近世城郭への変遷過程を示していてくれるようだ。遺構面ではおすすめ、ただし車を停める場所に苦労するお城である。
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込み入った住宅地の中に驚愕の土塁と堀が!ホントにびっくりした。 |
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12:10 |
■鷺山城(岐阜市)
あの「蝮」こと斎藤道三の隠居城である。岐阜城(金華山)のロープウェイ山頂駅あたりから、真正面に見える小さな独立丘陵である。道三と息子の龍興は長良川の河畔で戦い、道三は敗死するのだが、岐阜城の聳える金華山とこの小丘陵を見比べるにつけ、道三の最期が哀れに思えてしまう。遺構など期待していなかったが、なんと堀切ははっきり残っていた。雨がひどいのでヤブレンジャーすることは控えたが、3つ程度の曲輪を持つお城だったようだ。おそらく城郭としての主体部は南側の山麓あたりにあったのだろう。ちなみにここも車を停めるのが大変である。
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小さな鷺山(手前)と雄大な金華山(奥)。雨でなかったら最高のアングルなのに・・・。 |
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13:50 |
■春王・安王の墓(垂井町)
雨天オプションでは関ヶ原の古戦場も考えていたのだが、それも無理なくらいの雨になってしまった。とりあえずこんなときは普段行けない史跡めぐりをするしかない。ということで、関ヶ原のわずか2km手前の垂井まで来てしまった。ここはあの結城合戦で捕えられ、京都に護送される途上でここで斬られた春王丸・安王丸の墓所がある。まさに結城合戦終焉の地である。来てみたかったんだよなあ。「結城合戦」ゆかりの地はあちこち回ったが、これでひとまず「完」という感じで感無量。
驚いたことに、隣に池田輝政陣の標柱も立っていた。関ヶ原のときにこのあたりに布陣したらしい。雨さえ降っていなければ、南宮山や松尾山なども攻めたくなるところではある。
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ここぞまさに結城合戦終焉の地、である。 |
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14:20 |
■赤坂御茶屋敷(大垣市)
千葉にもある徳川将軍家御用達の御茶屋御殿である。現在つつじ園として綺麗に残されている。堀や土塁は千葉の御茶屋御殿の方が立派だ。ここは徳川将軍家の休泊所だったというが、目と鼻の先に大垣城があるのに、何ゆえここに宿泊施設を設けたのだろうか。そのあたりがちょっとわからない。雨が本降りではあるが、それがまた情緒を醸し出している。しかし晴れていたら、島左近奮戦の杭瀬川や家康が布陣した岡山なども行ってみたかったなあ。
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門の脇の土塁。全体に手入れが行き届いていて心が和む。 |
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14:50 |
■大垣城(大垣市)
まだ15:00前なのに雨がますます酷くなり空は真っ暗、この大垣城でシメることにした。文化の日にちなんで入館料無料だったのがラッキー。しかし、大垣城は古絵図で見ると実に芸術的な平城だが、空襲で現存天守を焼かれ、残る遺構も市街地の中に埋没してしまった。一応石垣があり復元天守も建つが、失われたものが大きすぎてなにやら空虚である。堀くらいはあると思っていたが、わずかの水路が残るばかりで縄張的にはまったく往時を偲ぶものは無い。市街地の中に大手門などの石碑も立つというが、この雨ではその散策も無理である。なんとなく低調な終わりになってしまったが、「おあむ物語」の冊子を購入できたのは成果。
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お決まりのアングル。というか木が邪魔でこのアングル以外は撮影不能。 |
ソレガシは大垣城こそが最高に芸術的な近世城郭的縄張だと思っている。 |
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おまけ
岐阜羽島駅でびしょ濡れ&泥だらけの散々汚れた衣服を着替え、名古屋乗換の新幹線で東京へ。はじめて「のぞみ」に乗ったけど、なんと名古屋から新横浜までノンストップ、まさにダイダラボッチもびっくりの一跨ぎである。うーむ、「のぞみ」に乗れば東海地方も近いんだなあ。カネが一番の問題だが。。。。
あと、「横尾城の白骨」の横尾城、「草履の墓標」の貝森城、「復讐鬼」に出てくる「囚人の石垣」が実在するかどうか、「亀洞古城記」なんていう記録がホントにあるのかどうか等、情報をぜひお寄せ頂きたく・・・。
ヤブレンジャー、巡城組の皆様、ほんとにお世話になりました!そして巡城組への感謝の気持ちを込めて、後日ソレガシは謹んで「巡城心」を進呈するのであった。
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