信州攻略へのハブターミナル

若神子城

わかみこじょう Wakamiko-Jo

別名:若神子古城

山梨県北巨摩郡須玉町若神子

(須玉町ふるさと公園)

城の種別

平山城

築城時期

平安末期(?)  

築城者

新羅三郎義光(?)

主要城主

武田氏城番

遺構

曲輪、空堀、復元狼煙台

復元された狼煙台と富士山<<2002年11月03日>>

歴史

平安末期、「後三年の役」で軍功があった源義家の三男、新羅三郎義光が甲斐守に任ぜられ館を構えたのが始まりとされるが、確証はない。

戦国期には武田軍の信濃攻略への国境玄関として重要視され、佐久口・諏訪口方面からの狼煙集合・中継点としての機能も持った。武田晴信(信玄)による信州攻略戦では、天文十一(1542)年の伊奈・高遠頼継攻め、天文十二(1543)年の佐久・大井貞清攻め、天文十九(1550)年の小笠原長時の林城攻撃、同年の村上義清牽制、天文二十(1551)年の真田幸隆による戸石城乗っ取りの後方支援、佐久の反武田残党平定戦、天文二十二(1553)年の村上義清が籠る塩田城攻略戦など、たびたび若神子城を経由している。

天正十(1582)年の武田氏滅亡後、甲斐の遺領は織田信長の属将、河尻氏が支配したが、六月二日の本能寺の変で信長が横死すると、甲斐に一揆が起こり、河尻秀隆は六月十五日に殺害され、徳川家康と北条氏直による甲斐遺領をめぐる紛争となった(天正壬午の乱)。この際に、北条氏直がこの若神子城に本陣を置き、新府城を本陣とする徳川家康と対峙した、といわれる。この後、徳川と北条に和議が成立し、甲斐は徳川領となり、まもなく若神子城も廃城となったと思われる。

甲斐源氏発祥の地、とされる須玉町。若神子城は新羅三郎義光が館を構えた地であるとも言われ、由緒正しい(?)城です。

新羅三郎義光が館を構えたかどうかはともかく、ここは戦国時代には武田軍の信州侵攻に当たっての一大補給基地、ベースキャンプでした。いわゆる「棒道」の起点でもあり、また諏訪口方面、信州峠から塩川沿い方面からの狼煙が集結される、「光ハブ」でもあります。信玄はここ若神子に大軍を集結させては、信州に攻め込んでいったのでしょう。上記の「歴史」に何度も登場するように、武田信玄が佐久や伊奈、筑摩、安曇、川中島などを平定するにあたり、ほとんど必ずといっていいほどこの若神子城を経由しています。地図で見るとまさに絶好の立地で、若神子城に立ち寄った記録がいちいち残っていない場合でも、ほとんど必ずここを通っただろうな、と思わせるものがあります。晴信の前、信虎の代にも諏訪軍と激しくやり合っているので、その頃からきっとベースキャンプ的な位置づけにあったんじゃないでしょうか。きっと万余の風林火山の中を、荷駄や御用商人、流れ者の物売りから果ては遊女、間者、透破の類まで、「わさわさっ」と動き回る、そんな場所だったんじゃないかな、と思います。狼煙による光通信網は、川中島と躑躅ヶ崎館をおよそ二時間で異変を伝達したといいます。単純に直線距離で時速5-60km/hってところでしょうか?須玉町ではこの「狼煙」をある種のシンボルとしていて、「のろしの里」の文字が至る所にありました。

若神子城は「大城」「北城」「南城」の三つの城域があるらしいですが、今回見学したのは「須玉町ふるさと公園」になっている「大城」です。街のシンボル、「つるべ式狼煙台」が復元されています。この狼煙台、江戸期の絵図面から復元したらしいのですが、ホントにこんなに機能的な形だったのかなあ?ちょっと疑問に思わないでもないです。公園は須玉町主要部を見下ろす小高い丘の上にあり、遠く富士山の美しい姿を拝むことも出来ます。ただ、公園化による改変が結構激しく、わずかに「薬研堀(というより畝堀)」などがありますが、ちょっとした地面の凹凸が「土塁?腰曲輪?」という感じで、イマイチ遺構の範囲が掴みづらい場所でもあります。個人的には史跡を公園として整備し、一般の人にも親しんでもらおう、という考え方には大賛成なのですが、遺構がどれなんだか分からないようになってしまうとこれはもう。。。なんというか、史跡の利用についての難しさを、改めて感じさせてくれる場所でもありました。

須玉町の主要部から見上げる若神子城。 須玉町ふるさと公園、まあ、なんと言うか、絵に描いたような平和な公園です。まあ、戦乱よりも平和の方が尊いのは言うまでもありませんが。。。
台地の縁の妙な凸凹。これって堀?腰曲輪? 解説には「薬研堀」とあり、北条氏直が陣を張った際に構築途中で放棄された堀らしい。でも、薬研堀というよりも、畝堀に見えるのは気のせい?
これが復元された「つるべ式狼煙台」です。結構大きいですが上には登れません。使い方は良く分かりませんが、とっても機能的なフォルムだなあとは思います。 主郭(?)先端部には不自然な起伏が沢山あり、「畝状阻塞?土塁?」などと思いましたが、単なる公園造成による地形っていうのが一番正解に近い気はします。
このサイトに何度も登場する富士山の姿。「もういい」って?だって綺麗なんだもん〜。 なぜか城下には平賀源心の墓が。晴信が討ち取って、ここに埋葬したのでしょうか?ここは「上木戸」のあった場所で、近世の口留め番所であるとともに、まさに「棒道」の起点でもあるそうです。
直前に見た獅子吼城とはえらい違いだなあ。。。北城、南城の方には若干の遺構があるらしいですが今回は時間の関係でパスしました。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「須玉」ICより車5分

JR中央本線「日野春」駅より徒歩30分またはバス(?)  

周辺地情報

獅子吼城とセットで見学。こっちは軽登山の準備をしていきましょう。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 

参考文献

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)、「風林火山・信玄の戦いと武田二十四将」(学研「戦国群像シリーズ」)、「歴史読本 1987年5月号」(新人物往来社)、別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

 

 

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