名門・甲斐武田氏の最期の城になってしまいました。もともと先代の信玄は「人は石垣、人は堀」の歌で知られるように、領国内に城は構えず、人心収攬こそ最大の防御、という信念を持っていましたが、この天正十年前後の情勢では、長篠設楽ヶ原での敗戦が尾を曳いている上、極度の緊迫状態から、要害堅固な城を構えざるを得なくなっていました。
この築城は穴山信君の進言で行われ、その信君の領地にある「七里岩」と呼ばれる断崖絶壁がその城地に選ばれましたが、実はこのとき、すでに信君は徳川に通じていたといいます。一門衆のなかでもとくに信玄との繋がりが濃い信君は、若年でしかも諏訪氏の血を引く勝頼をいつも見下していたといいます。そして、徳川に通じた信君は、武田家の経済基盤を破綻させるためにこの築城を進言したというのです。それは見事に当たってしまい、材木の調達を命ぜられた木曾義昌が真っ先に離反、また強引な遷都に快く思わない重臣、積もり積もる戦陣の軍費調達のために酷使される民衆の不満が頂点に達し、にっちもさっちも立ち行かなくなった、と。
よく勝頼は短慮で浅はかな大将であった、と思われていますが、果たしてそうだったのでしょうか。父信玄があまりにも偉大すぎたこと、諏訪の血を引く自分に家臣が着いて来なかった、頼みにしていた本願寺勢力が防戦に四苦八苦で頼りにならなかった、など、勝頼が自分の力を発揮できないような周辺環境が彼の評価に大きく影響したのではないでしょうか。なにより、織田の勢力が強大になりすぎ、それに比して家臣団を始めとした領国がまとまらない状況では、勝頼でなくても立ち行かなくなっていたことでしょう。勝頼自身は、武勇にも知略にも優れ、また外交面での努力も伺えたと思っていますが、やはり「天の声、地の利、人の心」の三拍子が揃わなかった、武運に見放された、ということですね。やっぱ一番悪いのは信君だと思うけど。
城は断崖絶壁の「七里岩」を最大の要害としていますが、山城というよりは後世で言うところの平山城でしょう。しかしいくら地形が堅固でも、やはり普請が未完成な印象は否めません。とくに北側の出構えなどは、いかにも応急処置的で、本来ならばさらに曲輪を築く、堀を重ねる、土塁または石垣の外郭線を築く、などの工夫があっても良かったところです。二重の土塁虎口などを見ていると、普請奉行の真田昌幸は、自らの居城・岩櫃城をモデルにプランニングしていたのでは?とも思われます。しかし、それらは陽の目を見ることもなく、逆に在城三ヶ月にして自落という哀しい終わりを迎えます。この新府城で戦闘が行われたわけではないのですが、この時点で命運が定まってしまったのかも知れません。
なお、見学中に盛んに鉄砲のような音が響いていましたが、なんと釜無川対岸にライフル射撃場があって、その音だということがわかりました。新府城の廃城後、400数十年を経てもなお、勝頼は鉄砲の音から逃れられないとは・・・せめて安らかに眠らせてあげて欲しいと思うのだが。
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本丸跡への長〜い階段。猛暑の中、ここを登るのは辛かった(笑)。 |
本丸跡に建立された藤武稲荷神社。 |
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本丸曲輪内には、勝頼の墓や、山県昌景ら重臣をはじめとした長篠陣没者慰霊の碑があります。 |
二ノ丸とその土塁虎口。新府城では石垣は一切使われていません。 |
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二ノ丸の土塁。二ノ丸の南には馬出しもあるらしいが、夏草で確認できず。馬出しフェチの僕としては残念。 |
こちらは南大手口の土塁虎口。二重の土塁虎口で食い違いを形成しています。ここも石垣は使われていません。 |
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虎口の先には丸馬出しと三日月堀。やはり武田流がここでも見られます。 |
東三ノ丸、西三ノ丸は夏草で覆われていました。 |
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首洗池。実際に首洗いが行われたかどうかは分かりません。外堀だったと見るべきでしょう。 |
「つの」のように突き出した、馬出し城の東出構え。 |
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こちらは西出構え。 |
西出構え周辺には水堀が残っていました。 |
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七里岩に面した搦手。大手と同じく二重の土塁虎口になっていました。 |
遠くから聞こえる鉄砲の音の正体。釜無川対岸に射撃場が。400年経っても、鉄砲は鳴り止まず・・・ |