信玄の東信攻略の拠点となった

前山城

まえやまじょう Maeyama-Jo

別名:

 

長野県佐久市前山

城の種別

山城

築城時期

文明年間

築城者

伴野光利

主要城主

伴野氏

遺構

曲輪、堀切、竪堀

前山城主郭<<2007年03月31日>>

歴史

文明年間頃、野沢城主の伴野光利が隣接する大井城主・大井氏との抗争に備えて前山城を築城したとされる。この頃伴野氏は大井氏と対立し、文明十一(1479)年七月に伴野氏は岩村田大井氏と戦って破り、大井政朝は伴野に捕虜となった。文明十六(1484)年には野沢城主の野沢伴野氏と前山城主の前山伴野氏が同族の争いで一時闘っっている。この頃の伴野氏は同じく大井氏と対立する甲斐の武田信昌らの援軍を得ており、この頃から武田氏との友好関係が始まり、大永七(1527)年にも前山城主・伴野光信は武田信虎に支援を要請している。天文九(1540)年に武田信虎が佐久に侵攻した際は臼田・入沢の両城をはじめ数十城を攻め破り「前山に城を築いて在陣す」と記されているが、この頃武田氏の助力によって前山城の拡張が行われた。

武田晴信(信玄)の佐久侵攻に対しても伴野氏は一協力的だった。天文十二(1543)年、信玄は長窪城の大井貞隆を攻めるため九月十日に甲府躑躅ヶ崎館を進発し、十六日に前山城に入っている。天文十五(1546)年、武田信玄は佐久に侵攻し五月三日に海ノ口に着陣、六日に前山城に布陣して内山城の大井貞清・貞重父子を攻め、二十日に大井貞清は内山城を開城し、野沢城に蟄居した。天文十七(1548)年二月、村上義清は上田原合戦で武田氏を破り、四月二十五日には内山城の宿城に放火、伴野貞祥も降伏し前山城は村上氏の支配下に入った。これに対して晴信は九月十一日に佐久衆に占拠された前山城を攻め落として奪還、敵数百人を討ち取り、村上方の城十三ヶ城が自落した。晴信は伴野貞祥に桜井山周辺で知行を与える判物を発給、続いて晴信は前山城の普請を開始している。天文十八(1549)年末までには、野沢城主・伴野信是も武田に降伏・出仕している。天文十九(1550)年、晴信は戸石城の攻略に失敗、村上義清は再び佐久に侵攻し野沢周囲を放火、武田氏の拠点である桜井山城を攻撃したが、武田方の城で落城したものはなかった。

天正十(1582)年三月、武田氏が滅亡すると伴野氏は織田信長の配下に入ったが、六月二日の本能寺の変によって信長が死去すると、佐久地方には小田原北条氏が進出、伴野信守とその子・貞信もこれに従った。これに対して徳川家康は配下の依田信蕃に佐久・小県の在地土豪の懐柔を命じたが、伴野氏はこれに従わず抵抗したため、十一月四日、信蕃により攻撃され前山城は落城、伴野信守は戦死したとも逃れて後に病死したともいわれる。前山城には依田信蕃が移ったが、信蕃は翌天正十一(1583)年二月二十二日、佐久岩尾城攻めにおいて戦死した。前山城もこの頃廃城となったと思われる。などに利用された。

佐久の在地土豪、伴野氏の経歴については伴野氏館の頁で触れさせていただきましたが、武田氏の佐久侵攻戦に際しては大井氏系の一族を始め激しく抵抗する土豪たちが多い中、伴野氏は終始協力的な存在でした。これは古くからの大井氏との勢力争いの中で伴野氏が武田氏の援軍を求めたことに端を発しているということです。いわゆる「遠交近攻」「敵の敵は味方」ということでしょうか。ただ佐久では武田氏による凄惨極まりない侵略行為が行われたこともあり、伴野氏の行為は地域の人たちからみれば「利敵行為」「裏切り」ととられても仕方ないかもしれません。伴野氏にとっても勢力争いの敵とはいえ同じ地域の土豪たちが次々と叩き潰され近隣の領民までもが過酷な仕打ちを受けるのを見て、きっといい気持ちはしなかったことでしょう。それでもなお「生き残り」というのは武家にとって何よりも優先課題であったということでしょう。

しかし伴野氏が選んだ生き残り戦略は、結局最後は報われることはありませんでした。天正十(1582)年三月、武田氏はあっけなく滅亡し、信濃も織田信長の配下となりますが、今度は「本能寺の変」によって信長が横死すると、信濃は無政府状態となり、近隣大名の草刈場と化してしまいます。そんな中で佐久の在地土豪の多くは小田原北条氏の配下となり、前山城主の伴野氏もまた北条に従います。しかし信濃一国の領有を狙う徳川家康はこの佐久を攻略するにあたり、この地方の出身で徳川軍の新たなホープと期待されていた依田信蕃を派遣、在地土豪の説得、切り崩しに掛かります。しかし前山城野沢城の伴野氏や、岩尾城に籠る大井氏残党らはもともとライバル関係にあった信蕃に従うことを潔しとせず、激しく抵抗します。信蕃は天正十(1582)年十一月、従わぬ伴野氏を前山城に攻め、これを落城させます。敗れた伴野信守は戦死したとも逃れて後に病死したともいわれますが、事実上このときに佐久の名族であった伴野氏は没落します。さらに小田原を頼って逃れたという伴野貞信もまた天正十八(1590)年に信蕃の弟・(松平)康国との戦いで戦死、伴野氏の血統は完全に途絶えます。北条氏に大して義理があったわけでもないんでしょうが、結果的には伴野氏が選んだ生き残り戦略は凶、と出てしまったわけです。一方で伴野氏を滅ぼし、徳川のホープとして期待されていた依田信蕃も岩尾城攻防で戦死、なんだかとても虚しいというか、無常観漂う結末という感じです。

山城概念図

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その前山城は伴野氏の居城であると同時に、前述のとおり武田氏との長年の関係から、信玄の佐久に於ける軍勢駐屯地としての性格も持っており、「高白斎記」などを見ても天文年間から幾度も信玄はこの前山城に逗留、長窪城の攻略や内山城攻めなどの拠点としています。天文十七(1548)年の上田原合戦で事実上武田氏が敗北し村上義清が佐久にまで侵攻、内山城の城下の過半が法化されたり、この前山城も奪われたりしています。しかしその後信玄は前山城を奪還、数百人の敵を討ち取り、直後に前山城で大々的に普請を行っています。この信玄による普請は山城の拡張というよりも城下町にあたる「宿城」の拡張であったようで、長窪城や内山城に次ぐ、事実上の武田氏直轄による駐屯地としての色彩を強めていったものと思われます。

前山城は山頂に神社があり、一応公園として整備されています。高さの割には急峻な山でしたが、比高が50mくらいしかないので10分も歩けば主郭に達します。主郭には神社が建ち、先端附近には物見のような高台があり、見晴台が建てられています。ここから野沢の集落をよく見れば、木立に囲まれた伴野氏館も見えるはずです。この主郭の尾根続き方面に大堀切1と曲輪U、そして二重堀切2、3があります。信濃の山城の規模としては決して大きい部類ではありませんが明瞭な遺構が比較的手軽に見られるという点では有難い存在です。信玄による普請の影響は感じられませんが、これは前述の通り城下町の整備が中心だったものと思われます。

[2007.06.23]

山城というよりも小高い丘陵端に築かれた前山城。山頂に見晴台があるので場所はすぐわかると思います。 前山集落の中の登り口。この東側の登り口のほか、西側の中沢川を渡る細い橋から登る道もあります。
主郭は神社、公園として小奇麗に整備されています。正面奥の見晴台が建つ部分は尾根の削り残しの高台になっており、往時も物見の櫓などがああったかもしれません。 主郭の大神宮社。主郭には大土塁や石積みなどがあるわけでもなく、信濃の山城としては少々地味な感じです。
主郭から佐久平、野沢方面を見る。ここに逗留した信玄も野望を持ってこの景色を望んだことでしょう。中央に伴野氏館(野沢城)が見えます。拡大 主郭北東の斜面には何段も平場があり、果樹園になっています。どこまでが曲輪なのか今ひとつよくわかりません。
主郭背後は堀切に直接面してはおらず、一段低い腰曲輪はあります。 堀切1は深さ5mほど、長い竪堀に繋がります。「じごくのかけのぼり」として子供の遊び場になっていますが、イマドキのお子さんはこんな場所で遊ぶんでしょうか・・・?
U曲輪は荒涼とした荒地になっています。もともと堀切で区切られた2つの曲輪だったようですがよくわかりませんでした。 U曲輪にあった塚。古墳、それとも土塁の残欠でしょうか?
最大の見所となる堀2、3の二重堀切。深さは4mほど。 堀切3の先はダラダラ尾根が続くばかり。二重堀切は立派ですが、どうも守りはあまり固くはないような気がします。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「佐久」ICより車15分。

JR小海線「中込」駅徒歩40分。  

周辺地情報

2.5km東に伴野氏の居館、伴野氏館(野沢城)があります。佐久周辺には内山城志賀城をはじめ、武田氏や大井氏関連の城館が多数あります。

関連サイト

 

 
参考文献

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「信濃の山城」(小穴芳実編/郷土出版社)

参考サイト

家紋World伴野氏の頁) 信玄を捜す旅 北緯36度付近の中世城郭

 

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