北条流光通信網

戸倉城

とくらじょう Tokura-Jo

別名:小宮城

東京都あきる野市戸倉

(光厳寺裏山)

城の種別

山城

築城時期

応永二十三(1416)年頃

築城者

小宮氏

主要城主

小宮氏、大石氏

遺構

曲輪、空堀

主郭から見渡す五日市周辺の街<<2002年04月28日>>

歴史

正確な築城時期は不明だが、応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱前後に活躍したこの秋川渓谷周辺の在地武士団「武州南一揆」の有力者、小宮氏の居城といわれる。

天文十五(1546)年の河越夜戦で北条氏康が関東管領上杉憲政らが大敗を喫すると、この地方を治めていた大石氏も北条に降り、大石定久は北条氏康の三男・氏照を滝山城に養子に迎え、自らは隠居した。その隠居所がこの戸倉城だとも言われている。大石氏は北条の傘下に入った後も完全に北条氏の臣下として従属したわけではなく、上杉謙信や、北条氏照に勝沼城を追われ辛垣山城で抵抗していた三田綱秀らと誼を通じていたらしい。また、定久は天文十八(1549)年に八王子周辺の野猿峠で割腹した、あるいは謀叛が発覚して柚木城に移された、などの説もある。天正十八(1590)年の小田原の役のころには大石氏は八王子衆として北条氏の家臣団に組み入れられ、おそらく八王子城に召集されて闘ったものと思われる。

北条氏の城郭といえば、街道を取り込んだ丘陵上や崖端に築かれる例が多く、山城は多くは無いのですが、この戸倉城はそんな数少ない山城のひとつです。とは言っても純粋な北条の城ではなく、もともとこの一帯を支配した小宮氏、大石氏の属城で、北条氏照が大石氏の養子になって滝山城に入城してからは、隠居した大石定久が住んでいたといわれます(異説あり)。大石定久は北条の傘下に入ってからも必ずしも快く臣従したわけではなく、三田氏らと画策して上杉に内通するなど、最後まで抵抗していたようです。しかしその最後については今ひとつ明らかではありません。北条氏照の傘下については記録が少なく、まだまだ不明なことも多いようです。この戸倉城の位置付けも今後、評価が変わってくるかもしれません。

山は比高差こそ100mそこそこではありますが、ほぼ独立峰で、かつ頂上付近は岩だらけの非常に急峻な地形となっていて、天然の要害ではありますが、その地形ゆえに大きな曲輪や大掛かりな防備は見られず、非常にシンプルな山城です。秋川渓谷の入り口というその立地条件ゆえに、北条氏にとっては重要な烽火台として利用されたのでしょう。この戸倉城をはじめとして、西多摩から丹沢山系にかけては北条氏の城郭としては数少ない山城が連続する地帯になっていますが、八王子城津久井城は別格として、その他の城は殆どが単なる烽火台、あるいは烽火台と根古屋式城郭の中間的な構造をしています。この戸倉城も山麓に居館を構えている点では、居住目的を持つ根古屋式の山城とも言えますが、こと山城の部分に関しては実態は烽火台、とくに甲州方面からの仮想敵に備えて設けられた、北条系光通信の一端を担うもの、と捉えるべきでしょう。

この山には狭いピークが二つあり、それぞれが削平されて小規模な曲輪になっているほかは、若干の腰曲輪や曲輪間の尾根の鞍部を利用した虎口空間があるくらい、その他に目を惹く遺構には乏しい印象です。解説板には「枡形虎口等がよく残っている」ことになっていますが、実際に登ってみると枡形といえるような明瞭なものではなく、鞍部を利用したシンプルな虎口空間があるだけです。堀切、といわれるものもありますが、尾根を断ち切る堀切というよりは、緩斜面を補う程度の堀で、むしろ帯曲輪に土塁を盛っただけにも見えます。大手道は山麓の神明社付近から伸びていたようで、現在は道の両側を石垣に固められた堀底状の直登ルートになっています。登山路はこの大手道と、永厳寺左手から上るルートの二つがありますが、どちらも直登に近いルートで、厳しい登りが続きます。僕はこの永厳寺のルートから登りましたが、主郭直前の剥き出しの岩盤を登るのはかなりキツかったです。その分、主郭から見る景色は格別です。

Souzouzu.jpg (28910 バイト)

<<復原想像図(サムネイル)>>

秋川渓谷の入り口付近では非常に目立つ山。頂上付近は岩肌が露出した急峻な崖でした。

足利尊氏が建立したと伝えられる光厳寺。足利二ツ引両の家紋があちこちに見られます。この光厳寺付近の高台一帯が城主居館跡と伝えられています。

光厳寺左手の歩道を登る。写真の堀切から先は険しい尾根道となります。 主郭周辺は切り立った崖と岩肌が続き、登山道も非常に険しくなります。その比高差以上に要害となっています。
東のピーク部分が標高434mの主郭。主郭といっても、ごく小さな削平地で、数段の腰曲輪が付属しています。この日はおばさんハイカーの集団が昼食中で、静かに古城の趣を味わうことはできませんでした。。。 五日市の市街から網代城、阿伎留城方面を見る。さすがに絶景です。檜原城からの烽火中継点としては理想的な立地です。
東峰と西峰、二つのピークに挟まれた鞍部が虎口空間になっているようです。 西峰ピークにも主郭とほぼ同じくらいの小規模な削平地があり、櫓台があったといわれます。
西櫓下の堀切、といわれていますが、尾根続きを断ち切る堀切ではなく、横堀、または帯曲輪に土塁を設けたもの、と見るほうがよさそうです。竪堀もありますが藪化して全く判別できません。 麓の神明社から直登するルートが大手道らしい。両側を石垣に囲まれていますが、これが当時の遺構かどうかはわかりません。多分後世のものでしょう。
みんな戸倉城を見に来ているわけじゃないんでしょうが、意外とハイカーが多いのに驚きました。登りはきついですが、距離は短いので30分くらいで登頂できます。その地形ゆえにあまり高度な遺構は見られません。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「八王子」ICから車30分、圏央道「日の出」ICから車10分。

JR五日市線「武蔵五日市」駅よりバスまたは徒歩60分。

周辺地情報

西には檜原城、東はまだ行っていませんが網代城、阿伎留城。ちょっと脚を伸ばして八王子周辺を見るなら八王子城滝山城がオススメです。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「多摩丘陵の古城址」(田中祥彦/有峰書店新社)、現地解説板

参考サイト

多摩の古城址史跡訪問

 

 

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