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図太い男、晴朝の隠居城

中久喜城

                                                  

なかくきじょう Nakakuki-Jo

別名:中岫城、亀城、岩壺城

JR水戸線が分断する中久喜城】

<<2002年09月29日>>

所在地
栃木県小山市中久喜
※城址碑・解説板
埋もれた古城マップ:栃木編
交通アクセス

東北自動車道「佐野藤岡」IC車30分。

JR・水戸線「小田林」駅から徒歩15分。

行き方・注意点

小田林(北)交差点の南西約300mの踏切の西側の小丘陵が主郭。石碑・解説板と堀の一部は線路北側の集落はずれ(小山市中久喜43-9付近)にある。

【基本情報】

築城年 平安時代末期 主要遺構 土塁の一部
築城者 小山氏 標/比/歩 標37/比7/歩7m
主要城主 小山氏 現況 宅地・線路・農地

【歴史】

久寿二(1155)年に小山政光が、先祖藤原秀郷が天慶の乱平定時に平将門調伏のために牛頭天王を祀った地に築城したという。永徳元(1381)年、小山義政が二度目の挙兵で鎌倉府・足利氏満軍に破れ、中久喜城付近の北山万年寺で隠居して「永賢」と号したという。その後、義政は祗園城を自焼して三度目の挙兵をしたが、上都賀で自刃した。

戦国末期の天正年間には、祗園城主・小山秀綱とその実弟の結城城主・結城晴朝が北条氏方と反北条氏方に分かれて抗争を繰り返した。これを見かねた佐竹義重・多賀谷重経が仲介となり、二人を北山の地で会見させて和談し、それを記念して北山の地を「中久喜」に改めたという。また、天正九(1581)年の北条氏照書状、天正十二(1584)年の結城晴朝書状などにより、中久喜城周辺が北条勢力と反北条勢力の「半手」であったことがわかるという。天正十四(1586)年に北条氏政らが祗園城に入った際には、反北条勢力は結城城中久喜城で備えを固めていた。

天正十八(1590)年の小田原の役で北条氏が滅ぶと、結城晴朝は家康次男の秀康を養子に迎えて結城城を明け渡し、自らは中久喜城に隠居した。慶長八(1603)年の結城秀康の越前転封に伴い廃城。

【雑感】

この中久喜城の位置づけというのはイマイチよくわからないところです。主郭とされる場所は方形のいかにも時代を感じさせる空間で、これを見る限りかなり築城年代は古いようにも見えます。もともとはやはり小山氏の属城であったのでしょう。近くには結城と小山を結ぶ街道があり、もともとはこの街道を監視し、小山領と結城領を繋ぐ「繋ぎの城」だったと思われます。

しかし中久喜城が大きくクローズアップされるのは、むしろ結城氏から見た「境目の城」としての役割にありました。天正年間には祗園城が北条氏に占領され、祗園城は北条氏照の北関東攻略基地となります。これに脅威を抱いたのが結城城主の結城晴朝。晴朝は小山秀綱の実弟にあたりますが、北条と上杉の間を行ったり来たり、生き残りのためならば兄の居城をも攻撃するという、形振り構わぬ露骨な「生き残り策」を演じた人物です。北条に祗園城を奪われた兄・秀綱も、さすがにこの弟を頼る気はしなかったようで、結城領を通り越して佐竹氏に庇護を求めています。

で晴朝、いよいよ北条氏がお隣の祗園城に陣取るに至って、「これはマジでヤバイ」と思ったか、ここからは反北条勢力に乗り換え、宇都宮国綱から養子まで取って、北条氏に警戒にあたります。その最前線となったのがこの中久喜城でした。そして天正十八(1590)年、北条氏が滅び、それに連座して実家の小山氏も滅んでしまうと、晴朝は養子に豊臣家に養子入りしていた家康次男の秀康を養子に迎え、自分はこの中久喜城に隠居します。宇都宮氏の養子は「返品」、そして実家との「境目の城」であったこの中久喜城で隠居・・・図太い神経してますよ、この人。

現状の中久喜城の遺構は、JRの水戸線が分断していますが、主郭部分は畑になって、まずまず残っています。参考書にさせてもらった「鷲城・祗園城・中久喜城」(鷲城・祇園城跡の保存を考える会/随想舎)によれば、ここも違法な開発などで随分危機的状況にあったらしく、「考える会」を中心とした人々の働きかけでようやく今日まで残ってくれたようです。感謝。ただ、主郭部の遺構は藪化している上、不法投棄のゴミが山のように棄てられているのはなんともいただけない。せっかく「考える会」の活動で残ったのに、心無い人間もいるものです。

水戸線の北側の外郭部は宅地化や農地化、道路建設などによって遺構は断片的ではありますが、城址碑が建つ付近には土塁と水堀の一部が見られます。舌状台地西側には、かつての名残りを感じさせる湿地なども一部残っていました。

西側から見る中久喜城の舌状台地。舌状台地って言っても、比高差は数mしかありません。周囲の田んぼはかつては低湿地だったでしょう。 「西城」方面に行こうとして藪を漕ぐと、おっと危ない!危うく泥田堀にハマるところだった・・・かつての名残りを伝える場所ですね。
国道4号バイパスの陸橋から見る中久喜城。JR水戸線が主郭の付け根あたりを分断しています。 水戸線の北側、宅地のはずれに佇む城址碑。この背後の藪が水堀痕と土塁です。
城址碑の背後の藪の中に隠れている水堀痕。わずかに草木の間から水が見えますが、写真じゃもうわかりませんね。。。 水堀の脇の土塁、物見塚だったらしいです。土塁上にはなにやら小さな祠が建っています。
その名も「城山踏切」から見る景色。まあ、これくらいの破壊ならこのご時世、しょうがないかなぁ。。。左手が主郭部、城址碑の建つ付近は右手の林の中です。 主郭部へ至る道はおそらくかつての堀底でしょう。
中久喜城の主郭。といってもすっかり畑になっていますけどね。周囲には土塁がありますが、草木に覆われその形状は判然としません。 主郭虎口かと思われる部分の土塁。4mくらいはあるかな?なかなか重厚です。
土塁上から見下ろす堀。 しかしその堀も場所によってはこんな有様。これじゃ保存を訴えた人々の努力が報われない。
訪城記録

(1)2002/09/29

(2)2009/07/12

参考サイト

 

参考文献

「「鷲城・祗園城・中久喜城」(鷲城・祇園城跡の保存を考える会/随想舎)

「栃木の城」(下野新聞社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

推奨図書

鷲城・祇園城・中久喜城―小山の中世城郭 (ずいそうしゃ新書 (2))

小山氏の歴史と周辺の城郭を知る基本の一冊。

周辺地情報

祗園城鷲城は必見、時間と興味があれば長福城曲輪なども。結城市なら結城城城の内館など。

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