この中久喜城の位置づけというのはイマイチよくわからないところです。主郭とされる場所は方形のいかにも時代を感じさせる空間で、これを見る限りかなり築城年代は古いようにも見えます。もともとはやはり小山氏の属城であったのでしょう。近くには結城と小山を結ぶ街道があり、もともとはこの街道を監視し、小山領と結城領を繋ぐ「繋ぎの城」だったと思われます。
しかし中久喜城が大きくクローズアップされるのは、むしろ結城氏から見た「境目の城」としての役割にありました。天正年間には祗園城が北条氏に占領され、祗園城は北条氏照の北関東攻略基地となります。これに脅威を抱いたのが結城城主の結城晴朝。晴朝は小山秀綱の実弟にあたりますが、北条と上杉の間を行ったり来たり、生き残りのためならば兄の居城をも攻撃するという、形振り構わぬ露骨な「生き残り策」を演じた人物です。北条に祗園城を奪われた兄・秀綱も、さすがにこの弟を頼る気はしなかったようで、結城領を通り越して佐竹氏に庇護を求めています。
で晴朝、いよいよ北条氏がお隣の祗園城に陣取るに至って、「これはマジでヤバイ」と思ったか、ここからは反北条勢力に乗り換え、宇都宮国綱から養子まで取って、北条氏に警戒にあたります。その最前線となったのがこの中久喜城でした。そして天正十八(1590)年、北条氏が滅び、それに連座して実家の小山氏も滅んでしまうと、晴朝は養子に豊臣家に養子入りしていた家康次男の秀康を養子に迎え、自分はこの中久喜城に隠居します。宇都宮氏の養子は「返品」、そして実家との「境目の城」であったこの中久喜城で隠居・・・図太い神経してますよ、この人。
現状の中久喜城の遺構は、JRの水戸線が分断していますが、主郭部分は畑になって、まずまず残っています。参考書にさせてもらった「鷲城・祗園城・中久喜城」(鷲城・祇園城跡の保存を考える会/随想舎)によれば、ここも違法な開発などで随分危機的状況にあったらしく、「考える会」を中心とした人々の働きかけでようやく今日まで残ってくれたようです。感謝。ただ、主郭部の遺構は藪化している上、不法投棄のゴミが山のように棄てられているのはなんともいただけない。せっかく「考える会」の活動で残ったのに、心無い人間もいるものです。
水戸線の北側の外郭部は宅地化や農地化、道路建設などによって遺構は断片的ではありますが、城址碑が建つ付近には土塁と水堀の一部が見られます。舌状台地西側には、かつての名残りを感じさせる湿地なども一部残っていました。