中世城郭の教科書と云われる緻密な縄張

杉山城

すぎやまじょう Sugiyama-Jo

別名:雁城

埼玉県比企郡嵐山町杉山

(積善寺裏山)

城の種別

山城

築城時期

不明(天文〜永禄年間?)

築城者

不明(金子氏?)

主要城主

不明(杉山主水弘秀?)

遺構

曲輪、土塁、空堀、虎口、馬出し、土橋

大手口付近の堀<<2002年01月20日>>

歴史

築城年代、城主等の歴史的な背景は不明。「新編武蔵国風土記稿」によれば「金子十郎家忠あるいは庄(杉山)主水」が城主であったと伝えるが、金子氏の活躍した鎌倉期の遺構とは考えられない。庄主水は杉山主水弘秀と同一人物と見られるがこれも詳細は不明。松山城を居城とした上田能登守配下の武将の居城であるという考察が正しいかもしれない。松山城と同時期に北条氏の属城となり、天正十八(1590)年の小田原の役で廃城になったと考えられる。

いやあ見事なもんです。さほど高い山でもなく、急峻な斜面でもなく、どちらかといえば小城といっていい規模の城ですが、本丸を中心に三方の尾根上にきれいに並ぶ階郭式の縄張りといい、延々と続く横堀に「これでもか」というほどの横矢といい、細い土橋を土塁虎口やら馬出しやらで防御する構えといい、「まじめな人がまじめに作った基本に忠実な城」という印象です。その分、中世山城らしい荒々しさ、ダイナミックさはありませんが、中世山城の構造を考える上での「教科書的」と言われるのも頷ける縄張です。各曲輪にめぐらされた土塁と堀を石垣に置き換えて規模をもっと大きくすれば、竹田城みたいに見えないこともないし。あまりに基本に忠実すぎて、「城攻めの訓練用施設だったのでは?」などという突飛な考えすら頭に浮かんできます。

唯一残念なのは史料に乏しく築城の由来や城主に不明な点だらけなこと。川越城松山城鉢形城などの要所を結ぶ北条の繋ぎの城、とも言われているようですが、その役割はおそらくすぐ近くの菅谷館が負っていたと思います。典型的な北条氏系の城郭と比べて、技法的にも立地条件にもやや違和感を覚えます。物見や烽火台にしては標高も高くなく、眺望も付近の山々の方がはるかに優れているでしょう。僕の推論では、北条系ではなくむしろ上杉系の城郭だったように思います。永禄年間の松山城をめぐる幾度もの争奪戦の中で、松山城主の上田氏の配下、または岩槻城主の太田氏の配下の武将が築いたか、あるいは、天文年間に山内上杉氏が平井城に逃れた後に小田原からの想定侵攻ルートに備えて築かれたか、のどれかであるような気がします。技法的に見れば松山城の上田氏配下である可能性が最も高そうな気がします。ただ最終的に上田氏は上杉氏から北条氏に鞍替えしており、どの時点での築城かはわかりません。それに、史料に基づく推測ではないので、全くの僕の思い過ごしかもしれません。もちろん、松山城が北条氏の配下に入ってからは、杉山城もその属城という扱いになっていただろうことは推測できます。

なお事前の調べでは主郭以外はあんまり整備されていないと思っていたのですが、行ってみてびっくり、主要な遺構は竹薮も下草もきれいに刈り取られて、これなら夏でも安心ねっ!て感じ。なんでも地権者の人が史跡保護に理解を示してくれて、整備されたんだとか。一時は関越自動車道の想定ルート上にあるとかで存続の危機にも直面しましたが、目出度くこうして残ってくれたことは喜ばしいことです。平井金山城もそうでしたが、私有地でも地権者の見識が高いというのはなんとも恵まれたことです。感謝感激。地権者には感状と武蔵比企一郡をつかわす(ウソウソ)。

Nawabari.jpg (97887 バイト)

<<縄張図(サムネイル・現地解説板より転載)>>

杉山城遠景。台形の小高い丘で、西の斜面意外は緩斜面、比高差も最高で40m程度と、いかにも要害には程遠い貧弱な丘陵に見えますが、実は非常に緻密な縄張を持つ中世城郭だったのです。 玉ノ岡中学校近くにある積善寺の墓地裏が大手口。藪はきれいに刈り取られ、案内板が設置されていました。この寺付近にも堀状の地形が見られることや、中学校方面へも土塁が伸びていることから、この丘全体が城域だったと考えられます。
大手虎口の土橋。この付近は馬出し、南三郭、南二郭が連なっていて、堀も複雑で見ごたえがあります。 南三郭と南二郭の間の堀。定石どおりの横矢が掛かっていて、非常に整然とした縄張です。

この城の特徴でもある馬出し。大手道の脇を固めています。この周囲も堀で囲まれています。

馬出しから南三郭の堀底を進む。こちらは整備こそされていないものの、土塁と横堀が非常に良好に残っています。

南三郭の虎口土橋のそばにある横矢。

南三郭の西側虎口は筋交いの土橋です。この筋交い土橋はいたるところで見られます。

南二郭と井戸曲輪の間の堀と土塁。この一段高い土塁は櫓台、櫓門だったかもしれません。

井戸曲輪に残る井戸跡。危険排除のためか、石でふさがれていました。

井戸郭を経由して北郭群へ。北側の曲輪も丁寧に堀で区切られています。井戸郭からの進路上には竪堀も見られます。

北二郭の虎口。張り出した枡形空間になっていて、直角に折れ曲がって土橋を渡ります。この先は北三郭、搦手口になります。

主郭から北の郭に向かう虎口の土橋。堀を筋交いに横切っていて、さらに傾斜が付けられています。

城址の碑と解説板が建つ主郭。碑の背後は一段高い土塁になっていて、おそらく櫓があがっていたものと思われます。

南北に長い主郭。土塁がほぼ全周していて、三箇所の虎口空間があります。

主郭南端の枡形空間。土塁が堀に向かって切れていますが、ここからは土橋はなく、おそらく曳き橋等で井戸郭に接続されていたのでしょう。井戸郭は実質的には主郭付けの馬出しとも解釈できます。

主郭から見た堀。井戸郭との間には前述の通り、橋で接続されていたと思います。

主郭の東側へ向かう虎口。こちらは枡形空間は伴なっておらず、単純な坂入虎口になっています。

東二郭の虎口。坂入の土橋を伴なっています。

東三郭の堀。東の端にあたります。ここにも綺麗に横矢が掛かっていました。

東二郭から南二郭へ向かう崖縁入路。左手は深い谷、右は主郭周りの堀で、狭い土橋状の通路になっています。

左の通路には不自然な起伏が見られます。連続畝状阻塞の一種かもしれません。

ダイナミックさはないものの、巧妙な縄張は思わず見入ってしまいます。やはり教科書、といわれるのも頷けますね。

 

 

交通アクセス

関越自動車道「東松山」ICより車15分。もうすぐそばに「小川嵐山」ICができます。

東武東上線「武蔵嵐山」駅徒歩40分。

周辺地情報

菅谷館をセットで見学したい。こちらも見所満点。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「中世の城館跡」(埼玉県立歴史資料館)

参考サイト

埼玉の古城址

 

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