表裏比興、真田昌幸謀奪の城 

沼田城

ぬまたじょう Numata-Jo

別名:蔵内城

群馬県沼田市西倉内町

(沼田公園)

城の種別

崖端城

築城時期

天文元(1532)年頃

築城者

沼田顕泰

主要城主

沼田氏、真田氏

遺構

曲輪、土塁、堀、石垣、模擬鐘櫓

断崖に面した本丸西櫓台の石垣<<2001年1月4日>>

歴史

白井城の白井長尾氏に属した沼田顕泰(万鬼斎)が享禄二(1529)年に築城を開始し天文元(1531)年に完成したといわれる。天文二十一(1552)年、平井城の関東管領・上杉憲政が北条氏康に追われ沼田城に身を寄せた。顕泰や長尾憲景らの斡旋で、憲政は春日山城の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。その後、顕泰は北条氏に従い、北条氏は沼田城に北条孫次郎らを派遣したが、永禄三(1560)年、謙信が上杉憲政を奉じて関東に出陣すると、北条孫次郎らは撤退し、孤立した顕泰は長井坂城の謙信の陣を訪れ降伏した。

しかし、顕泰は家督の相続をめぐって、三男の朝憲を殺害したことから家中が対立、永禄十二(1569)年、顕泰は天神山城に立て籠もったが、二千五百の兵に囲まれて城を脱出、会津の芦名氏を頼って落ち延びた。これにより沼田城は沼田氏から、上杉氏城代へと支配が移った。

天正六(1578)年五月、御館の乱で上杉氏が内紛状態に陥ると、北条氏政は沼田城鉢形城主・北条氏邦ら三万を派遣し沼田城を占領、城代に猪俣邦憲、上杉氏の降将・藤田信吉、金子泰清らを置いた。これに対し、武田勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を命じた。昌幸は藤田信吉、金子泰清らに調略をしかけ、天正七(1579)年、岩櫃城から進発、名胡桃城の鈴木主水重利や小川城などが説得に応じ開城した、北条氏は十一月ニ十一日に猪俣・藤田を先鋒に五千の軍勢で名胡桃城、小川城を攻めたが、大雪のため一旦鉢形城に撤退した。天正八(1580)年正月十一日、昌幸は名胡桃城で軍議を行い、三十一日に明徳寺城を攻略、沼田周辺に放火して名胡桃城に引き上げた。この後、昌幸は沼田城攻略を叔父の矢沢城主・矢沢綱頼に任せ甲府に戻った。

閏三月、綱頼は沼田城を攻め、四月上旬、金子泰清らが投降、五月に入って藤田信吉も投降し、五月十八日、昌幸は無血で沼田城に入城した。昌幸は沼田城に藤田信吉、海野幸光・輝幸兄弟らを城代として入れた。しかし天正九(1581)年二月、沼田顕泰の庶子、平八郎景義が北条氏と金山城主・由良氏の援助で沼田城奪還を狙って攻撃した。新府城の普請奉行を勤めていた昌幸は急遽岩櫃城に入り、金子泰清に命じて策略を講じた。三月十一日、藤田・海野の沼田城勢は景義と田北の原で闘い敗れて沼田城に引き上げた。このとき金子泰清は偽の起請文をしたため、三月十五日、景義を沼田城内に招き、城内に入ったところを刺殺した。この後、十一月に海野兄弟が北条方の猪俣邦憲に通じたとして、真田昌幸はふたりを誅殺している。

天正十(1582)年三月に武田氏が滅び、六月には本能寺の変で織田信長が横死すると、昌幸は主家をたびたび変えながら独立領主の道を歩んだ。武田氏の遺領をめぐって徳川家康と北条氏政・氏直が甲斐や信濃、上野で対陣した(天正壬午の乱)が、同年九月に和議が成立、天正十三(1585)年に甲斐・佐久・諏訪は徳川領、上州は北条領との分割が実施されることになった。しかし、真田昌幸に対し家康は上州沼田領の北条氏への明け渡しを命じたところ、昌幸は「沼田領はわが父祖伝来の土地であり、徳川の領地ではない」として明け渡しを拒否し、徳川家康と対立、昌幸は天正十三(1585)年七月、徳川麾下から上杉景勝に奔った。これに対し家康は同年八月、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら譜代の家臣と信濃・甲斐の国人衆を加え七千を動員し上田城を攻撃した(第一次神川合戦)。

その後、北条氏との間で沼田城をめぐって対立、関白豊臣秀吉の裁定で、天正十七(1589)年、北条氏政の上洛の条件として沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土、名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土とされた。しかし同年十月、沼田城代・猪俣邦憲が名胡桃城を奪取する事件が置き、これを期に秀吉は小田原城の北条氏政・氏直に宣戦布告、翌天正十八(1590)年、小田原城は包囲され、北条氏は降伏開城して、小田原北条氏は事実上滅亡した。

北条氏滅亡後は昌幸の嫡子信幸(信之)がニ万七千石で入城、五層の天守などを造営し城の規模を拡大した。慶長五(1600)年の関ヶ原の役では、信幸は徳川家康の東軍に味方し、昌幸と信繁(幸村)は西軍に与して上田城に立て籠もった。この時の功として、真田信幸は沼田領を安堵され、信州松代城も与えられた。天和元(1681)年に真田氏五代伊賀守の改易に伴い廃城となったが、のちに本多氏により再建され、黒田氏、土岐氏と続いて廃藩置県を迎えた。

利根川と、支流の蓮根川、片品川が合流する断崖絶壁の上に築かれた沼田城。いまでは静かな公園に生まれ変わっています。関東最北の平地部でありまた上越国境の要衝にあたる地で、幾度となく争奪戦が繰り広げられた舞台です。ここでは、北条、武田、上杉という大勢力の狭間で、たくみな世渡り術によって独立領主の道を歩んだ、真田昌幸が大活躍します。昌幸はもともと、真田幸隆の三男で、甲府の躑躅ヶ崎館で信玄、勝頼の小姓、といえば聞こえはいいものの、要するに「人質」として若いころを過ごします。しかしその力量を認められ、甲斐の名族、武藤家を嗣ぐことになりました。いずれにせよ、三男坊の昌幸には、真田家の当主の座は廻ってくることはない筈でした。しかし、「長篠・設楽ヶ原」の合戦でふたりの兄、信綱、昌輝を失ってしまったところから、昌幸の運命は大きく変わり始めます。持ち前の智謀で沼田城攻略戦をはじめとした吾妻の平定に活躍し、勝頼の信頼も篤く、新府城の普請奉行なども任されました。しかしその勝頼は怒涛のような織田・徳川連合軍の前に果て、昌幸は主家を失います。この逆境にも昌幸は巧みに対処し、徳川や北条と対等に渡り合い、天下人・豊臣秀吉までも味方にしてしまいます。その秀吉は昌幸を「表裏比興の者」と呼んだといいます。「表裏比興」とは、「表裏一致せぬ食わせ者」というような意味合いでしょう、皮肉半分、親しみ半分の言い様なんでしょうね。その昌幸の表裏比興ぶりが存分に発揮されたのがこの沼田城をめぐる攻略戦の数々でしょう。言葉巧みに敵に内通者を作り、時には敵も味方も騙まし討ちにして、最後はとうとう北条氏滅亡の口火を切ってしまったわけです。恐るべし、昌幸!

その昌幸が沼田城でたったひとり、勝てなかった相手がいます。それは長男・信幸の妻、小松姫。小松姫は猛将・本多忠勝の娘で、徳川家康の養女として信幸に嫁いでいました。関ヶ原前夜の「小山評定」で昌幸は、信幸は東軍、自らと幸村は西軍に属することを決し、居城の上田城に帰ろうとしていました。ふと昌幸は、たった今別れたばかりの信幸の居城、沼田城で一夜を過ごそうと、小松姫の守る沼田城を訪れます。しかし、小松姫は昌幸をいぶかしんで、薙刀を片手に大音声で昌幸に言い放ちます。

 

「会津に向かったはずのご一行が突然現れるは甚だいぶかしい。お舅様とはいえ、主人伊豆守(信幸)不在の今、みだりに城内にお入れするわけには参りませぬ」

 

昌幸の家臣たちはカッカして「大殿が子の城に入るに何の遠慮がいるものか、それ城門を打ち破れ」とばかりに騒ぎ出すのを見た小松姫、さらに大音声で

 

「門を押し破ろうとするは何者!城主の留守に狼藉に及ぶは曲者じゃ。女なれども城主の妻、本多の娘、城に手をかける者は一人も残さず討ち取らん」

 

とさすがは本多忠勝の娘、これには昌幸も苦笑して

 

「城を盗りに来たのではない、孫の顔が見たかっただけじゃ」

 

と言ったという。まもなく小松姫は城中から子供たちを連れ出して、昌幸に面会させた、と、まあそんな話です。さすがの昌幸もタジタジ、というところでしょうか。いや、意外と息子の城をぶん取って、困らせてやれ、それくらいのことは考えていたかもしれませんね。

この沼田城は、遺構は多くはありませんが、わずかに残る石垣や堀が当時の姿を忍ばせています。遺構そのものよりも、目もくらむような崖端に築いた、地の利を生かした立地条件を見て欲しい城ですね。

沼田市街地から見上げる沼田城。利根川上流の断崖上に築かれた典型的崖城。

三ノ丸屋敷跡から見下ろす沼田市街。

城址公園入り口の駐車場脇に残る三ノ丸土塁。下は堀底の道路になっている。

わずかに残る本丸堀。二ノ丸は野球場やテニスコートになっている。

沼田城のシンボル、復原された本丸太鼓櫓。

発掘された本丸西櫓台虎口の石垣と石段。

崖に面した本丸西櫓台の石垣。 西櫓台石垣から沼田市外を見下ろす。

平八郎石。真田昌幸が策を用いて沼田城を奪取した際、沼田平八郎景義の首実検を行ったとされる。 本丸北側の堀切。

 

交通アクセス

関越自動車道・沼田ICより10分

JR沼田駅より徒歩30分

周辺地情報

名胡桃城を見なくちゃ。 

関連サイト

 

 
参考文献 「真田戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)、別冊歴史読本「戦国・江戸 真田一族」 (新人物往来社)、「日本名城の旅 東日本編」(ゼンリン)、小説「謀将 真田昌幸」(南原幹夫)、現地解説板

参考サイト

からっ風倶楽部

 

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