根小屋城、というありがちな(?)名前ゆえか、行く前は全くその存在を知らず、山名城へと至る登山口の道しるべではじめてその存在を知りました。武田信玄ゆかりの城、ということで、山名城から尾根続きに1.2kmと近いことから、「ついでに見ていくか」程度の軽い気持ちで訪れました。
しかし!その遺構の素晴らしさに、思わず一人で喚声を上げてしまったり、しばし絶句したり・・・。とにかく、スゴいお城でした。山名城からの尾根続きを暫く歩くと、木々の合間から右手に突出した丘陵端が見えてきますので、場所はすぐわかります。きちんとコース案内もあります。最初の堀切を見て「おお、スゴイ!」などと思いましたが、その驚愕は歩を進めるとともに大きくなっていきます。
各曲輪には横堀、竪堀が絡みつくように配置され、その複雑かつ巧妙な堀のネットワークはさながら丸子城や岩櫃城をも彷彿とさせます。主郭周囲の北東側と南西側には実に長大な横堀が配され、主郭虎口には大型の土塁枡形が附属します。このあたりは北条氏の名城である滝山城さえも髣髴とさせるものがあります。この主郭周囲の堀には堀内障壁らしきものが認められ、一部には水が溜まっていました。「畝堀」というほどのものかどうかは微妙ですが、武田流の築城術にもこの堀内障壁が用いられているのは、高天神城などの例もあり、決して北条の専売特許だったわけではなさそうです。実際、甲相駿三国同盟締結からその破棄にかけて、武田氏と北条氏は時には敵として、時には同盟者として密接な隣人関係にあったわけで、築城術に相互に影響を与えあっていたのかもしれません。いずれにしても、戦国期後半に新規に取り立てられた武田流の城郭、ということで、当時最先端の築城術を堪能できる、という意味では実に貴重なお城であると思います。
見学に当たっては複数のコースがあるようですが、ソレガシは「山上の碑」経由のコースを取りました。駐車場もきちんとあるし、登りもきつくないし、ついでに山名城にも立ち寄れるというおトクなコースです。ご参考までに。
年末の帰省のついでに寄り道してお絵描きしてきましたので、こちらもご覧ください。
【根小屋城の考察】2004.1.24
根小屋城(標高197m)は山名城の峰続き、1.2kmほど北の半独立丘にある。烏川と鏑川の合流点に挟まれたこの丘陵は標高180m前後、比高100m前後の低丘陵が延々と続いているが、根小屋城のある峰はこの丘陵地帯と細い尾根一本でわずかに繋がっている、まことに築城にはうってつけの地形である。ここからは現在の高崎市域や藤岡市域などが見渡せる。この半独立丘の頂附近を中心に、周到な防御がなされている。
唯一の尾根続きは堀切1で断ち切っている。ここからが城域と見ていいだろう。この堀切1の尾根は搦手でもある。大雑把な構造としては、主郭である曲輪Tを中心に、東西南北にそれぞれ曲輪U〜Wを設け、その間には「あ」「い」の横堀を設けている。この「あ」「い」の横堀や、さらに塁壁の下にある横堀「う」「え」は、それぞれ竪堀や堀切(堀切2、3など)、帯曲輪に変化しながら山腹に複雑な堀のネットワークを形成している。非常に壮観である。塁壁のずっと下方に横堀を設け、竪堀などと複雑に絡み合わせる手法は武田氏系城郭の特徴のひとつであり、駿河丸子城などにその典型が見られる。ただし横堀「う」「え」周辺はかなり深い笹薮である上一部ぬかるみ化しており、堀の形状や竪堀との接合、曲輪の様子などが今ひとつ確認できなかったのが残念である。
大手道は主郭東側の竪堀状通路であるとされるが、ここからだとU−Wの曲輪をほとんど経由せずに主郭虎口前の通路に達してしまうという難点がある。あるいはこの経路は当時存在しなかったのであろうか。現在の遺構を表面的に見る限り、この経路は存在したように見えるのだが・・・。大手口の竪堀状通路脇は大きな崩落痕がある。一見、巨大な竪堀にも見えるのだが、やはりこれは崩落したものであろう。下は崖である。
主郭虎口は大型の枡形構造である。滝山城の主郭枡形をも髣髴とさせる。そういえばこの根小屋城は、規模こそ遠く及ばないが、細かい造作が結構似ている部分もある。武田と北条、違う勢力同士の城郭が似るというのも面白い現象だが、両者は天文二十三(1554)年以降の甲相駿三国同盟における十数年の同盟期間があり、また同盟破棄後も信玄が滝山城をはじめとした北条の主力城郭を攻めるなど、味方として敵として、深い付き合いがある。そんなことから築城技術に影響を及ぼしあう、なんていうことがあったかもしれない。
もうひとつ、見逃せない遺構がある。それは、「あ」「い」の横堀に見られる、畝とも思える堀底の障壁である。このうち「あ」の堀の南東端には堀底に冬でも水が溜り、あたかも水堀であるようにも見える。この「あ」の横堀には四つの障壁、「い」の横堀にも三つないし四つの障壁がある。いずれも畝堀と断定するわけにはいかない(とくに堀「い」の北西端は単なる土橋かもしれない)が、高天神城西峰でも畝状の堀が検出されたとのことであるから、武田氏系城郭においてもこうした技法が用いられていた可能性はあるのではないだろうか。
最後に、隣接する山名城との共通点と相違点について考察したい。根小屋城は事実上、山名城と一体化した城砦として運用管理されていたものと考えられるが、縄張りは全く似ていない。山名城は基本的に直線連郭といっていい縄張り構造である。この違いはどこにあるのだろうか。それは、山名城は武田氏によって接収される以前から存在した城郭であり、対して根小屋城は全く新規の普請であったことがその原因ではないだろうか。山名城の場合、武田氏が改修を行う以前から、直線連郭の基本的なプランは完成していたものであろう。もちろんこれは築城法だけでなく、地形による制約もあっただろう。逆に、部分的に見られる類似点としては、横堀の配置や通路を兼ねた竪堀の存在などである。これらは武田氏の手に(直接か間接かはともかく)よるものであろう。古くから存在する城郭を改修しても、大まかなグランドプランを変更することはなかなか難しい。あるいは、穿った見方をすれば、武田氏は山名城を改修してはみたものの、諸々の制約が気に入らずに新たにこの根小屋城を普請したのかもしれない。