上州で炸裂する武田流築城術

根小屋城

ねごやじょう Negoya-Jo

別名: 

群馬県高崎市根小屋

 

城の種別

山城

築城時期

永禄十一(1568)年

築城者

武田信玄

主要城主

望月氏・伴野氏・仁科氏(武田軍城番)

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀、横堀 等

根小屋城の横堀<<2002年12月29日>>

歴史

永禄十一(1568)年に武田信玄が「山名、鷹ノ巣の間に新城を築き、信州の士、望月甚八郎、伴野助十郎、仁科加賀守信盛らを入れて守らせた」とされるのが根小屋城である。信玄は、北条氏康、上杉謙信らに対する境目の城として取り立てたものという。

根小屋城、というありがちな(?)名前ゆえか、行く前は全くその存在を知らず、山名城へと至る登山口の道しるべではじめてその存在を知りました。武田信玄ゆかりの城、ということで、山名城から尾根続きに1.2kmと近いことから、「ついでに見ていくか」程度の軽い気持ちで訪れました。

しかし!その遺構の素晴らしさに、思わず一人で喚声を上げてしまったり、しばし絶句したり・・・。とにかく、スゴいお城でした。山名城からの尾根続きを暫く歩くと、木々の合間から右手に突出した丘陵端が見えてきますので、場所はすぐわかります。きちんとコース案内もあります。最初の堀切を見て「おお、スゴイ!」などと思いましたが、その驚愕は歩を進めるとともに大きくなっていきます。

各曲輪には横堀、竪堀が絡みつくように配置され、その複雑かつ巧妙な堀のネットワークはさながら丸子城岩櫃城をも彷彿とさせます。主郭周囲の北東側と南西側には実に長大な横堀が配され、主郭虎口には大型の土塁枡形が附属します。このあたりは北条氏の名城である滝山城さえも髣髴とさせるものがあります。この主郭周囲の堀には堀内障壁らしきものが認められ、一部には水が溜まっていました。「畝堀」というほどのものかどうかは微妙ですが、武田流の築城術にもこの堀内障壁が用いられているのは、高天神城などの例もあり、決して北条の専売特許だったわけではなさそうです。実際、甲相駿三国同盟締結からその破棄にかけて、武田氏と北条氏は時には敵として、時には同盟者として密接な隣人関係にあったわけで、築城術に相互に影響を与えあっていたのかもしれません。いずれにしても、戦国期後半に新規に取り立てられた武田流の城郭、ということで、当時最先端の築城術を堪能できる、という意味では実に貴重なお城であると思います。

見学に当たっては複数のコースがあるようですが、ソレガシは「山上の碑」経由のコースを取りました。駐車場もきちんとあるし、登りもきつくないし、ついでに山名城にも立ち寄れるというおトクなコースです。ご参考までに。

年末の帰省のついでに寄り道してお絵描きしてきましたので、こちらもご覧ください。

【根小屋城の考察】2004.1.24

根小屋城平面図(左)、鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します。

根小屋城(標高197m)は山名城の峰続き、1.2kmほど北の半独立丘にある。烏川と鏑川の合流点に挟まれたこの丘陵は標高180m前後、比高100m前後の低丘陵が延々と続いているが、根小屋城のある峰はこの丘陵地帯と細い尾根一本でわずかに繋がっている、まことに築城にはうってつけの地形である。ここからは現在の高崎市域や藤岡市域などが見渡せる。この半独立丘の頂附近を中心に、周到な防御がなされている。

唯一の尾根続きは堀切1で断ち切っている。ここからが城域と見ていいだろう。この堀切1の尾根は搦手でもある。大雑把な構造としては、主郭である曲輪Tを中心に、東西南北にそれぞれ曲輪U〜Wを設け、その間には「あ」「い」の横堀を設けている。この「あ」「い」の横堀や、さらに塁壁の下にある横堀「う」「え」は、それぞれ竪堀や堀切(堀切2、3など)、帯曲輪に変化しながら山腹に複雑な堀のネットワークを形成している。非常に壮観である。塁壁のずっと下方に横堀を設け、竪堀などと複雑に絡み合わせる手法は武田氏系城郭の特徴のひとつであり、駿河丸子城などにその典型が見られる。ただし横堀「う」「え」周辺はかなり深い笹薮である上一部ぬかるみ化しており、堀の形状や竪堀との接合、曲輪の様子などが今ひとつ確認できなかったのが残念である。

大手道は主郭東側の竪堀状通路であるとされるが、ここからだとU−Wの曲輪をほとんど経由せずに主郭虎口前の通路に達してしまうという難点がある。あるいはこの経路は当時存在しなかったのであろうか。現在の遺構を表面的に見る限り、この経路は存在したように見えるのだが・・・。大手口の竪堀状通路脇は大きな崩落痕がある。一見、巨大な竪堀にも見えるのだが、やはりこれは崩落したものであろう。下は崖である。

主郭虎口は大型の枡形構造である。滝山城の主郭枡形をも髣髴とさせる。そういえばこの根小屋城は、規模こそ遠く及ばないが、細かい造作が結構似ている部分もある。武田と北条、違う勢力同士の城郭が似るというのも面白い現象だが、両者は天文二十三(1554)年以降の甲相駿三国同盟における十数年の同盟期間があり、また同盟破棄後も信玄が滝山城をはじめとした北条の主力城郭を攻めるなど、味方として敵として、深い付き合いがある。そんなことから築城技術に影響を及ぼしあう、なんていうことがあったかもしれない。

もうひとつ、見逃せない遺構がある。それは、「あ」「い」の横堀に見られる、畝とも思える堀底の障壁である。このうち「あ」の堀の南東端には堀底に冬でも水が溜り、あたかも水堀であるようにも見える。この「あ」の横堀には四つの障壁、「い」の横堀にも三つないし四つの障壁がある。いずれも畝堀と断定するわけにはいかない(とくに堀「い」の北西端は単なる土橋かもしれない)が、高天神城西峰でも畝状の堀が検出されたとのことであるから、武田氏系城郭においてもこうした技法が用いられていた可能性はあるのではないだろうか。

最後に、隣接する山名城との共通点と相違点について考察したい。根小屋城は事実上、山名城と一体化した城砦として運用管理されていたものと考えられるが、縄張りは全く似ていない。山名城は基本的に直線連郭といっていい縄張り構造である。この違いはどこにあるのだろうか。それは、山名城は武田氏によって接収される以前から存在した城郭であり、対して根小屋城は全く新規の普請であったことがその原因ではないだろうか。山名城の場合、武田氏が改修を行う以前から、直線連郭の基本的なプランは完成していたものであろう。もちろんこれは築城法だけでなく、地形による制約もあっただろう。逆に、部分的に見られる類似点としては、横堀の配置や通路を兼ねた竪堀の存在などである。これらは武田氏の手に(直接か間接かはともかく)よるものであろう。古くから存在する城郭を改修しても、大まかなグランドプランを変更することはなかなか難しい。あるいは、穿った見方をすれば、武田氏は山名城を改修してはみたものの、諸々の制約が気に入らずに新たにこの根小屋城を普請したのかもしれない。

その名も根小屋集落の背後に聳える台形の山、これが根小屋城です。 「山上の碑」方面から続く尾根が搦手。ここの看板によると、尾根には信玄の財宝が埋められており、その場所を踏むと空洞になっていて音が響く、とのこと。気になる方は尾根の上でドンドン跳ねてみたください(笑)。
搦手を越えると最初に目に入るのが堀切1。唯一の尾根続きを分断しています。このあたりから怒涛のように城郭遺構が目に飛び込んできます。 さらに進むと、曲輪W背後の堀底道へ。堀底には落ち葉が溜まっていて、段差の部分は結構滑ります。この写真の手前方向にも浅い横堀が、写真左手の塁壁には竪堀があります。
主郭の東側に位置する曲輪W。このお城の縄張りは、主郭を中心に北と南に長い曲輪V、Xを、西と東に曲輪U、Wを配する、左右対称な構造です。 大手道とされる竪堀状通路。しかし、ここが大手じゃあまりにも主郭へのアプローチが楽すぎるのではないか?そんな気もします。
大手通路脇の崩落痕。巨大な竪堀かと思いましたが、やはり自然地形のようです。この下は垂直な崖、結構アブナイです(この先は立ち入り禁止区域)。 大手道沿いの曲輪の土塁を写したものですが、こちらは笹薮がひどくてナニがなんだか・・・図の曲輪の形状もかなりいい加減です。
主郭北東面の横堀「あ」。素晴らしいです。ところどころに「畝?」を思わせる突起があるのが気になります。 横堀「あ」の土橋(畝?)の脇に溜まる水。冬でもわずかながら水があります。どうも堀底の形状を見ても、単なる空堀ではなく障壁内に水(泥)を溜める構造だったような気がします。
植え込みが邪魔で写真はイマイチですが、主郭の大型の枡形です。 主郭には展望台がありますが、木々に遮られて周囲の眺望はイマイチです。「山火事注意」の幟がつい「風林火山」に見えてしまう・・・そんなことってありませんか?(ねぇよ普通)。
主郭の展望台から見下ろす坂虎口、こちらは搦手にあたるのでしょう。周囲には高さ1m前後の土塁があります。 主郭から見下ろす横堀「い」、塁壁の下で曲線を描きながら伸びているようすがわかりますね。
主郭枡形前の小空間(曲輪Y)、「群馬の古城」では郭馬出しと解釈していました。馬出しという表現が適切かどうかはともかく、虎口空間の防衛をいっそう強くするものであることは間違いないでしょう。ここから曲輪W方面へ竪堀経由で抜けるルートもあります。 曲輪Yからみた通路。ちょうど屈曲部を頭上から狙えるいい位置にありますが、果たしてこの経路が昔からあったものか、それとも曲輪Wからの経路しかなかったのか、わかりませんでした。
主郭北東面の細長い曲輪V、現地では「二ノ丸」という看板と「腰曲輪」という看板のふたつがあります。いずれにしても主郭直下を防衛する、要になる曲輪です。 写真ではちょっとわかりづらいですが、曲輪Vの塁壁には竪土塁と思われるものがいくつかあります。
曲輪Vにある大きな井戸。埋まっているようで水はありませんでした。 左の井戸脇にある竪堀「え」。このお城には竪堀も多く、それぞれが横堀と繋がって複雑な堀のネットワークを形成しています。

塁壁の下にある横堀「う」、全体にガサ藪化していて全体像はよくわかりませんでしたが、横堀「あ」とあわせて、二重の横堀ラインを持っていることになります。

曲輪Uは主郭に次ぐ高さがあります。ここにも「二ノ丸」の看板があってややこしい。二ノ丸、というよりも「西曲輪」という言い方の方が適切な気がします。

曲輪U脇の横堀。これが竪堀に変化し、さらに横堀「う」に繋がってゆく。この堀の先にも小さな曲輪があります。 主郭の南西直下の横堀「い」と曲輪X。ここの横堀も素晴らしいです。ここにも数箇所、障壁らしきものがあります。この堀は南東端では竪堀に変化します。
横堀「い」北西端の障壁らしきものを撮ったのですが・・・ここは単なる土橋かもしれません。また、このお城の堀底にはあちこちで段差があります。 堀切3。ここは帯曲輪の両端が堀切となっているものです。大きく見たら横堀状の構造である、とも取れます。

 

交通アクセス

上信電鉄「山名」駅より徒歩40分、「高崎商科大学前」「根小屋」駅からも行けるはずです。

関越自動車道「高崎」ICから20分、上信越自動車道「藤岡」ICより車10分。

周辺地情報

尾根続きの山名城も一緒に見て行きましょう。

関連サイト

 

 
参考文献

「群馬の古城」(山崎一/あかぎ出版)

「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

 

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