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| 江戸川対岸より望む国府台城。直下を江戸川(当時の太日川、利根川)が洗う急崖の台地で、要害性のみならず、市河津周辺の水運を押さえる要所でもありました。 |
国府台城の直下の河畔。川面からの比高差は約20-25mです。ここは釣り客やボートで遊ぶ人々で賑わっています。 |
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| 江戸期の名水にも選ばれたと言う羅漢の井。当然、籠城の際には水の手のひとつとなったでしょうが、目の前の川から汲み上げれば水はいくらでも確保できそうな気もします。 |
城址から江戸川、東京方面を望む。この先3kmには、北条氏綱・氏康が攻略した葛西城があり、北条氏と反北条勢力が対峙しました。「第二次」の直接のきっかけは北条氏の葛西城代、太田康資の離反だと言われます。 |
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| 里見広次公廟(右)、里見諸将霊墓(中)、里見諸士群亡塚(左)。「第二次」では里見氏一門、正木氏ら重臣一族にも多くの討ち死にがありました。 |
「夜泣き石」。第二次国府台合戦で敗死した里見広次の娘がこの石に持たれて泣き続け、終に息絶えてから、夜な夜な泣き声が聞こえる、という落城秘話。むろん伝承であります。 |
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| 公園内には二重土塁が残ります。いずれも後世の改変を受け、また公園化による整備で、逆に全体像はイマイチ掴みづらいです。 |
「物見の松」の土塁。木々に遮られ見晴らしはゼロです。このような土塁端の物見跡があちこちに見られます。 |
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| 城内にある明戸古墳石棺。文明十一(1479)年、太田道灌がこの地に築城の際露出したと言われる。道灌はこれを何だと思ったでしょうね?この古墳も物見の櫓台の一つだったでしょう。 |
明戸古墳付近の土塁と堀。二重土塁によって形成された堀は若干の屈曲を伴っています。堀底は庭園の造成により改変されています。 |
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| 公園から北に出て、栗山方面に向かう。この畑地あたりが最高点で、ここが主郭だったと比定する向きもあります。 |
里見公園の北東にある天満宮。文明十一(1479)年の太田道灌による勧進であるそうです。思わぬところで道灌の足跡に触れることができました。 |
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| 安国山総寧寺。天正三(1575)年に北条氏政が関宿城下に勧進したものを、江戸期にこの国府台の地に移したもの。 |
栗山方面に向かう坂の脇、民家の敷地となっている場所が櫓台であったといいますが。。。。 |
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| 国府台城の北東に深く入りこむ谷津。かつて家臣団の住居があったといわれていますが、いわゆる城下町のようなものがあったかどうかについては僕は疑問を持っています。 |
左の谷津から台上に上がる道。この写真から奥が虎口であったらしいです。 |
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| 虎口付近の土塁の残欠。この坂の上は民家の敷地なので入りませんでしたが、屈曲のあるいかにも虎口らしい道でした。この付近は藪の中に谷津と低湿地が入り組んで、おぼろげながら当時の地勢を感じさせます。 |
谷津から南の総寧寺方面へ向かう。ここにも土塁の残欠が見られます。この道も堀の一部かもしれません。やはり入り組んだ地形の中に当時の面影を残す一角です。 |
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| 里見公園南端、河畔に降りるこの道が堀切かどうかは断定できませんが、城域はおそらく現在の里見公園南側の複数の学校敷地方面まで続いていたと考えられます。 |
「第二次」で北条軍の先鋒が渡河した「からめきの瀬」(のちの「矢切の渡し」付近)からの遠景。里見勢が見下ろす中、敵前渡河を行った緊張の地。 |