足利将軍家、断末魔の抵抗

勝軍山城

しょうぐんやまじょう Shougunyama-Jo

別名:東山御城、北白川城、瓜生城

 

京都府京都市左京区一乗寺松原町

城の種別 山城

築城時期

永正十七(1520)年

築城者

細川高国

主要城主

細川高国、六角定頼、細川晴元、足利義晴・義輝

遺構

曲輪跡、空堀、土塁

瓜生山から京都の街の夕陽を眺める<<2001年11月24日>>

歴史

永正十七(1520)年、管領細川家をめぐる内紛の際に、細川高国・六角定頼が築城したと言われる。高国は足利義晴・細川晴元連合軍に敗北し落城。その後、義晴と晴元が不仲になると、天文十五(1546)年、義晴は詰の城としてここを整備したが、翌年、細川軍進軍の前に戦わずして自焼し落城、将軍親子は逃亡した。その後は三好長慶と義輝の対立、六角義賢と三好氏の対立などでたびたび整備と落城を繰り返す。元亀元(1570)年の信長による比叡山包囲では津田信広、足利義昭らの陣地として利用された。また翌年の叡山焼き討ちでは、明智光秀らが入城しているが、その後まもなく廃城になったと推定される。

雅の都、京都の洛北に、およそ似合わぬ無粋な山城。こんな山城に篭らざるを得なかったところに、足利将軍家のどうしようもない断末魔の叫びが聞こえるようです。

ここは小説「剣豪将軍・義輝」の冒頭に出てくる城で、僕はこの小説でこの城を知りました。細川氏との争いでこの勝軍山城に篭った足利義晴・義輝父子は、結局防戦も敵わぬと見るや、城に火をかけて尾根伝いに坂本に落ち延びました。火をかけたのは、「逃亡路を照らす照明にするため」だったとのことです。なんともはや。。。この時既に、武門の棟梁としての足利幕府の威信は消えてなくなっていたことでしょう。ここから義晴・義輝父子の流浪の生活が始まります。

遺構は、一応はそれらしいものはありますが、もともとが本格築城ではないことと、日没寸前での見学だったため、細かいところまで見れなかったことなどから、詳細は不明です。ブッシュの中にわずかに堀跡らしきものが確認できたことと、土塁らしきものが確認できたくらいです。

よくわからなかったのですが、詩仙堂、狸谷院という有名な(らしい)観光スポットの陰に隠れて、ここまで来る人はまずいないようです。ましてこんな紅葉の時期の京都、わざわざ朽ち果てた山城跡を夕暮れ時にひとりで見に来る奴はそう多くは無いでしょう。が、意外に歴史に何度も登場する城だったようです。前述の「剣豪将軍〜」で印象に残った場面でもあり、遺構はともかく、来たことには満足しました。

このあと、国道1号に出るまでに超大渋滞に巻き込まれ、2kmかそこらの道を抜けるのになんと3時間もかかってしまいました。さすが紅葉の時期の京都は、混みかたも半端じゃないです・・・・。

瓜生山山頂の勝軍地蔵社。 六角定頼が地蔵を安置した石室。
激しいブッシュと光量不足で判然としませんが、空堀跡らしきもの。登山用の道も堀底状なのですが、これは堀かどうかはわかりませんでした。 義晴・義輝父子が落ち延びた尾根道。北は比叡山に繋がっています。

小説「剣豪将軍・義輝」は長編ですが面白いですよ!見学はまるっきり行き当たりばったりであったにもかかわらず、ふーむさんの落穂ひろいのおかげで道にも迷わずなんとか日没までにたどり着けました。感謝です。

 

交通アクセス

叡山電鉄「一乗寺」駅または「茶山」駅徒歩20分。

名神高速道路「京都東」IC車30分。なお京都市内は季節によっては大渋滞が見込まれます。

周辺地情報

いちばん有名なのは二条城。その他の京都の見どころは山ほどあるので、好きなところに行きましょう!

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

落穂ひろい

 

埋もれた古城 表紙 上へ