標高わずか130m、この小城に毛利三万もの軍勢を引き付けたかのと想うと不思議な感じがします。その小城で毛利と織田の最前線どうしが何度も激突、赤松氏、上月氏などの在地土豪や名門・尼子氏、尼子再興に生涯を捧げた山中鹿之助など、あまりにも多くの命が散っていきました。
山中鹿之助幸盛は、尼子氏の近習として頭角を現しましたが、尼子氏の本拠地、月山富田城は毛利の手に渡り、尼子氏は一度は滅びました。鹿之助は主家の再興を志し、京都で僧として暮らしていた一族の勝久を奉じて富田城の奪回を狙います。そして「七難八苦」の挙句、当時毛利と対峙していた織田信長に与することで再興の機会を狙うことになりました。その最前線がこの上月城です。しかし上月城は毛利の大軍によって十重二十重に囲まれ、織田の援軍、羽柴秀吉も手が出せず、そうこうしているうちに播州三木城の別所氏が織田勢から離反、上月城救援を乞う秀吉に対して信長の命令は「上月城を放棄して三木城を包囲せよ」、つまり鹿之助や尼子勝久は、織田勢から見捨てられることになったのです。この瞬間に、尼子主従の命運は決まりました。尼子勝久は自刃し、鹿之助は毛利領国へ護送される途上に、備中高梁川の渡しで斬殺されました。さぞかし無念であったか、はたまた「死してなお、主家の再興に尽くす」ためにあの世で奮戦しているか・・・。
この日は時間の関係で登山は断念、山の麓の「上月氏発祥の地」碑や尼子・山中主従のお墓を参拝して帰りました。山上の遺構も良く残っているらしく、いつか利神城などと一緒にじっくりと見学したい場所です。