山中鹿之助奮戦及ばず、捨殺しの城

上月城

こうづきじょう 

Kouduki-Jo別名:

兵庫県佐用郡上月町上月

城の種別 山城

築城時期

延元元(1336)年

築城者

上月次郎景盛

主要城主

上月氏、赤松氏、尼子勝久

遺構

曲輪跡、空堀、土塁

山麓から見上げる上月城<<2001年4月23日>>

歴史

延元元(1336)年、建武の乱で武功のあった上月次郎景盛がこの地を与えられ築城された。その後は嘉吉の乱に連座し、三代景則の時、上月氏は滅亡する。弘治二(1555)年、赤松政則の孫・右京太夫赤松政之が置塩城より上月城に入り、その子赤松蔵人大輔政範は西播磨5郡16万石を領したが、秀吉の中国侵攻により攻められ、宇喜多直家の救援も功を奏さずけ天正五(1577)年落城。政範は自刃し、城は尼子勝久に与えられた。しかし再度宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は上月十郎景貞に守らせたが、再び秀吉軍により落城、景貞は自刃したと伝えられる。再び、尼子勝久・山中鹿之助主従が上月城に入ったが、毛利軍は山陰山陽の両道より三万の軍勢を以って、天正六(1578)年、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援の為、高倉山に陣を進めたが、信長の指示により三木城攻略を優先し、尼子主従は見捨てられた。上月城は孤立し遂に七月五日勝久は毛利氏に降伏、開城自刃し尼子氏は滅亡した。山中鹿之助は毛利輝元陣へ護送中、備中高梁川の合の渡しで斬殺された。

標高わずか130m、この小城に毛利三万もの軍勢を引き付けたかのと想うと不思議な感じがします。その小城で毛利と織田の最前線どうしが何度も激突、赤松氏、上月氏などの在地土豪や名門・尼子氏、尼子再興に生涯を捧げた山中鹿之助など、あまりにも多くの命が散っていきました。

山中鹿之助幸盛は、尼子氏の近習として頭角を現しましたが、尼子氏の本拠地、月山富田城は毛利の手に渡り、尼子氏は一度は滅びました。鹿之助は主家の再興を志し、京都で僧として暮らしていた一族の勝久を奉じて富田城の奪回を狙います。そして「七難八苦」の挙句、当時毛利と対峙していた織田信長に与することで再興の機会を狙うことになりました。その最前線がこの上月城です。しかし上月城は毛利の大軍によって十重二十重に囲まれ、織田の援軍、羽柴秀吉も手が出せず、そうこうしているうちに播州三木城の別所氏が織田勢から離反、上月城救援を乞う秀吉に対して信長の命令は「上月城を放棄して三木城を包囲せよ」、つまり鹿之助や尼子勝久は、織田勢から見捨てられることになったのです。この瞬間に、尼子主従の命運は決まりました。尼子勝久は自刃し、鹿之助は毛利領国へ護送される途上に、備中高梁川の渡しで斬殺されました。さぞかし無念であったか、はたまた「死してなお、主家の再興に尽くす」ためにあの世で奮戦しているか・・・。

この日は時間の関係で登山は断念、山の麓の「上月氏発祥の地」碑や尼子・山中主従のお墓を参拝して帰りました。山上の遺構も良く残っているらしく、いつか利神城などと一緒にじっくりと見学したい場所です。

大手道入り口。山は急斜面ですがさほど高くもないため、2-30分もあれば登れるでしょう。 上月氏発祥の地の碑。もちろん、この石碑のところで生まれたわけではないでしょうが(笑)
尼子勝久追悼の碑。名門尼子も播州の片隅で幕を閉じる。 その尼子に身命を捧げた山中鹿之助の碑。七難八苦も、尼子再興に繋がらず・・・

 

交通アクセス

中国自動車道「佐用」IC車20分

JR姫新線「上月」駅

周辺地情報

 

関連サイト

 

 

参考文献

別冊歴史読本「戦国古城」 新人物往来社、「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

 

 

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