揚北筆頭、色部氏の素晴らしい遺構

平林城

ひらばやしじょう Hirabayashi-Jo

別名:加護山城

新潟県岩船郡神林村平林

城の種別 中世山城・居館

築城時期

南北朝期?

築城者

平林氏

主要城主

色部氏

遺構

曲輪、堀切、土塁、空堀、虎口、馬洗い、首切り清水 他

平林城居館部の堀<<2003年05月04日>>

歴史

南北朝期までは、小泉庄被官であった平林内蔵助代々の居城であったとされ、南朝・新田義貞方に着いた平林氏を秩父平氏で小泉庄色部条の地頭であった色部氏が攻め滅ぼしてその居館としたという。南北朝期に色部高長は北朝に与し、隣接する荒川保の河村氏らと戦っている。

永正の大乱(永正四〜十一、1507-1514)では、色部昌長は守護・上杉房能に与して守護代の長尾為景と対立し、永正五(1508)年五月には為景に与する鳥坂城主の中条氏や築地氏らに平林城を攻められ落城、降伏して長尾氏に帰属した。

天文八(1539)年、守護の上杉定実が出羽米沢城主の伊達稙宗の子を養子に迎え入れようとした。これに対して色部氏や本庄氏は伊達稙宗の室が中条藤資の妹であったことから中条氏の勢力拡大を懸念してこれに反対した。これに対して中条氏、伊達氏は小泉庄へ侵攻し、本庄城大葉沢城が落城した。平林城も攻撃されたが、色部勝長もまた中条氏の鳥坂城を攻撃している。まもなく伊達氏の家中で内紛が発生し、養子縁組の話も立ち消えになった。

色部勝長は永禄四(1561)年の第四次川中島合戦等でも戦功を揚げ、謙信から「血染めの感状」を与えられている。また、永禄七(1564)年には上杉謙信より下野唐沢山城の城代に任じられている。永禄十一(1568)年には本庄繁長が武田信玄に通じて本庄城で挙兵、色部勝長は上杉謙信に従い、本庄城合戦に従軍したが、陣中で陣没した。その後、色部長真は「御館の乱」「新発田重家の乱」では上杉景勝に味方している。天正十八(1590)年、色部長真は出羽仙北郡の一揆鎮定後の仕置きのため出羽大森城に駐留し、直江兼続や大谷吉継の配下で刀狩などを務めた。

慶長三年(1598年)、上杉氏の会津移封により廃城。

高校の頃、電車で通り過ぎた「平林駅」の東側に、その城跡はありました。謙信に興味を持ってはじめて、平林城と色部氏のことを知りました。見学する前は全く期待しておらず、村上城の雪景色を見学したついでに立ち寄ってみたのですが、遠目にもはっきりわかる居館部の土塁壁を見つけた瞬間に、期待していなかった自分を反省。積雪のため、居館部の一部だけを見学しただけでも、その遺構の素晴らしさに興奮してしまいました。近所のオバチャンに要害部に行けるかどうか聞いたところ、「夏なら1時間もあれば行けるが、冬ではどうかなあ」という答えで一旦見学を諦め、また雪解けの時期に来ることに。

こうして春に再度見学、それ以来何度か訪れていますが、何度行っても飽きが来ない素晴らしい遺構が残ります。標高283mの要害山(古名・加護山)の要害は他の有力揚北衆の居城と比べても規模は小さく、遺構も古臭い感じがします。ただ、この山の上からの景色は実に素晴らしく、日本海に沈む夕陽の姿などは言葉に表わせぬほどの絶景でした。まあ、下山時に暗くなってしまうのでオススメはいたしかねますが・・・・。

平林城の真髄はむしろ山麓の居館にあります。これはもう「居館」などと呼ぶのが申し訳ないほど立派なもので、3つの主要な曲輪を持ち、大規模な堀・土塁を備えた「城」そのものです。色部氏は平林城の整備・拡張については山の上の要害を捨て、この居館を要塞化することの方を重視していたようです。現在は国指定史跡になっており、発掘作業が断続的に続けられているようですが、いつ頃まで続くのか、報告書等が出るのかどうか等はわかりません。個人的には色部氏の生活を伺わせる遺物や遺構が出ることを期待しています。

  

平林城居館部平面図(左)、加護山要害平面図(右)

※クリックすると拡大します

色部氏は小泉庄加納・色部条に入部した秩父平氏の流れを汲み、本庄城主の本庄氏とは同族にあたります。当初の居館がどこにあったのかは不明ですが、南北朝期に在地領主の平林氏を滅ぼして平林城を居城にした、とされています。この辺の経緯はよくわかりません。

天文年間には上杉定実の養子問題が発端で小泉庄のほぼ全域が隣国出羽から攻め寄せた伊達氏に占領されるという危機も経験しています。このときは伊達氏の家中に内乱(伊達天文の内乱)が勃発したため平林城は辛うじて落城に到らずに済んでいます。

色部氏は戦国末期には「揚北衆」筆頭の実力を持つ国人領主となり、色部勝長はあの「第四回川中島合戦」で謙信から感状を受けた猛者でした。この感状は現存し、「血染めの感状」として有名です。しかし、同族の本庄繁長が武田信玄の調略に乗り、本庄城で謙信に叛くと、本庄城攻囲軍に加わりますが、本庄繁長の夜襲によって戦死してしまいます。勝長の武勇を思うと非常に残念でならない気がします。我が黒川城主、黒川清実の妻は色部勝長の妹でした。

また色部氏には、戦国期の色部氏の家中行事、祝事などの細目を書き記した「色部氏年中行事」という史料があり、有力国人領主の支配形態や生活を知る上で格好の資料として知られています。とくに正月行事に関しては質素な中にも厳かで神聖な雰囲気が感じられて鳥肌モノです。よろしければ「色部氏年中行事」の記事などもご覧いただきつつ、色部氏の素晴らしい居城を訪ねてみてはいかがでしょうか。

[2007.01.14]

 

平林城1:居館部  平林城2・加護山要害  色部氏年中行事

交通アクセス

JR羽越線「平林」駅徒20分。

日本海東北道「新発田聖籠」IC車40分。

周辺地情報

近隣では上関城、下関城などが行きやすい。村上城大葉沢城も外せない。

関連サイト

 

 

参考文献

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「神林村史」

「村上市史」

「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)

「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)

現地解説板

参考サイト

 

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